読んだ『医者という仕事』(南木佳士 著、朝日新聞社) [本・雑誌]

<あとがき>にある「平凡な生活ほど実現するに難しいものはない」という言葉が印象に残る。

いまさらではあるが。

<丈夫な体と優しい心>
タイトルは丸谷才一のエッセイに出てくるという医者に向く人の3条件の2つ。
あと1つは、「まずまずの頭」
南木さんは、医者に限らず「優しい心と丈夫な体の両立はとても難しいことなのだ」という。さらに「あのまま東京でサラリーマンになっていたら、自分の発病はもっとずっと早かったであろう」と続く。

そして、「病気になってかえって素直になった心の底から、ストレスにさらされ続けている都会の優しきサラリーマンたちに幸あれと祈っている。」で締める。

都会であれ、地方であれ、現代であれ太古の昔であれ、「ストレス」は常にそこにある(はず)。太古の昔は、生命の危機そのもの。
現代は、心の中に生命の危機を包摂してしまう。

ふと思うのは、南木さんと同様の末期癌患者を数多く看取る医師は、それこそ日本中にたくさんいるはず。
ストレスにさらされる都会のサラリーマンも、星の数ほどいる。
どうして南木さんにせよ、私にせよ、うつ病というものに罹患したのか。
その理由が知りたい。
いまさら、どうでもよい話ではあるのだが。

<厄年を過ぎて>
「病んだ者の視線は例外なく低くなる。人間として持つべき最も大事なものは(中略)ただひたすらやさしくあることなのだというようなあたりまえのことが、低くなった視野に見えてくる。」

果たして私の視野は低くなれたのか。
すくなくとも、「ありがたい」という言葉を心に感じることは増加した。
今、生きてあることのありがたさ。
ともかく生きている。

<医者という仕事>
30代半ばから40歳代の働き盛りの医者仲間との雑談。
医学部入試に「最も問われるべき資質は、学力ではなく優しさであった」。それならば入試方法を改善して真の優しさを備えた若者が合格できるように面接を重視すればよい、と話は進むが、「大学に残って出世競争に勝ち抜いて偉くなっていった連中に、「優しさ」なんていうものが判定できるわけがない」

なるほどw

おそらくそれは「専門家」と言われる人たち全部に言えることだろう。
医師、裁判官、検察官、弁護士などの専門職。
さらに広げれば、教師たち。
おそらく柳田邦男さんの「2.5人称」につながっていくはず。

むしろ子どもを相手にする教師にこそ、「優しさ」の資質が求められるに違いない。
なぜなら、仕方のないことだが、末期がんの患者たちは、必ず死にゆく存在であるのに対し、教師たるもの、子どもたちにその「優しさ」を教えなければならない存在なのだから。
患者を取り巻く家族には、意外な場合もあり、若くして命を落とす患者にとっては死ぬに死ねない気持ちのままに亡くなっていくことは想像に難くない。

そこに、その臨床の場で医師ができること、ただただ患者の心に寄り添ってあげること。
それができる医師は、どれだけいるのだろう。

終末期医療。緩和ケア。
見るにしのびない状況も生まれてくるだろうし、誰のための医療なのかという問題も出てくる。

そんなとき「死」を支配させられてしまうのが担当医なのだろう。
家族の悲しみや患者本人の苦しみを狭い病室のなかで、主宰させられてしまう医師という存在。

これを「業」と言わずして何を業と呼ぶべきか。
ただ、そこまで受け止めてくれる医師がどれだけいるのかは、私にはわからない。

「単なる身体の故障ならふつうの「医者」にまかせておけばよいが、心を病んだ「病気」の人にはやはり「慰者」が必要なのだ」

私が通うクリニックで、3人の医者に出会った。
その1人は、患者の目を見ない医師だった。
「診察」をしたつもりだったのだろうか。
幸い、彼とはたまたま曜日を代えたことでおさらばできた。
なにより。

ああいうタイプの医者が精神科医という看板を掲げていることに、驚かされる。
治るべき患者は治らないばかりか、さらに悪化していくだろう。
私には関係のないことではあるが。

<新入社員に贈る言葉>
「会社というのは多分におとぎ話的要素を含んだ組織なのだが、その中で人間であり続けることが真に生きているということなのだと思う。」

深い考察。
「真に生きている」ためにはどのような「人間であり続け」なければならないか。
これについては、別のエントリーにて。

<偏差値と私>
「努力すれば必ず報われると考える医者たちは患者の死を敗北とみなす。これこそ偏差値人間の思い上がった発想であり、こんな医者が日本にはまだまだ多いのである。」

医者に限らず、この国全体が明治期以降、常に坂の上の雲を目指してやってきた。
「努力すれば必ず報われる」。「なせばなる」。
私も両親からそう言われて育ってきた。

うつ病を発症しない人にとっては、それでいい。
しかし、私の場合は発症してしまった。

おそらく「努力が必ず報われる」のは、学生時代までだろう。

そして、ビジネス本が大好きだった私は、読む気がまったくなくなっている。

<年始の死生観>
「人間の力には限りがある。人間は目に見えないなにか大いなる力によって生かされている。」

この言葉には、強く魅かれる。

300人を超えるひとたちの死亡診断書を書き続けてきた南木さんの言葉だけに、重みがある。
そんな経験はまったくない私ではあるが、この病気を経て同じように「大いなる力」の存在を信じるようになった。

南木さんの場合は、うつ病以前の幼少期から祖母との生活の中で、「死者の例は裏山の深い森に還り、そこで先祖たちの霊と交歓し合えるのだ」という死生観を持っていた。

「少なくとも祖母の世代の日本人たちは、いかに努力しても死ぬ者は死ぬのだと潔く割り切れるだけの強い心を持っていた。」という。

「強い心」に憧れる。

<山中静夫氏の尊厳死>
「来年のことを言うと鬼が笑う」という言葉の真の意味を初めて知った。
「人間の運命なんていつどうなるか分かったものではない」と感じる謙虚さ。
「自分は(あるいは自分だけは)死なない」などと考える不遜な心を鬼は笑うのだろう。

私もこの病気を経て、「死なない」とは思わなくなったが、「生きたい」とは思う。

<小心男にとっての妊娠>
ここに出てくる「小説家のホラ話」というのが、実に面白い。
そんな出来事が南木さんにあったのかと思うと、ニヤリとさせられる。
そりゃそうだろう。
若い前途有望な医者だったのだから。

そして、私小説家として身辺のディテールをこと細かに描写する作家としての顔とは別の、医者でもない小説家でもない彼自身の「茶目っ気」と「人を楽しませる才能」と「人が楽しむのを楽しむ」人であることを強く感じる。

<患者と等身大の医者>
「患者と等身大の医者であろうとすること。これは言うは易く、行うは難い課題である。(中略)病む人の心を理解しようと務め、最後には自分も病んでしまうかも知れない危険と隣り合わせで診療に臨む覚悟が必要なのだ。」

こんな覚悟を持った医者は、この時代、どれだけいるのだろうか。

第5章「長いエッセイのような掌篇・短篇小説集」の『上田医師の青き時代』がいい。
オチがいい。

【ちなみに】
もし南木佳士がパニック障害にもうつ病にも罹患していなかったとしたら
http://amoki-san.blog.so-net.ne.jp/2011-05-30
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

読んだ『ふいに吹く風』(南木佳士 著、文芸春秋) [本・雑誌]

奥付をみると1991年の作品。
南木さんは、いまだパニック障害、うつ病を発症する前なのではないか。
これまで読んだエッセイとは文体が明らかに違う。

発症後のは、とても修飾語が多い文章。
表現力が豊かだともいえる。
ただ、私はこの『ふいに吹く風』のような簡素で素朴でストレートなエッセイのほうが好み。

<あとがき>にあるように、ひとつひとつのエッセイが短編小説であるかのような味わいがある。
ある種の自由さというのか、心が萎縮していないというか、萎縮という言葉が悪ければ凝固していないというか。結晶化されていないころというか。

生き生きとした生活の匂いのするエッセイ集とでもいうと、いちばん合っているのかもしれない。

タイトルの「ふいに吹く風」。
ふいに吹く風のように、人の命はうつろいやすい。
はかなさの象徴としての「ふいに吹く風」。

同じ風でも、書き手によってずいぶん違うものだ。
たしか、故多田富雄先生は、「何か良いことが起きるとき」「これまでとは変わったことが起きるとき」に「風を感じる」と書いていた。

こんなにも違うものか。

さて、<酒について>という一文がおもしろい。
「自分はおもしろい話をする人間だ、と自認する人が心得ておかなければならない最低条件というのがある。自分で蒔いた種は自分で刈れ。これにつきる。この条件を守れない者には物語作者になる資格はない。他人を笑い者にしたつけは、すべて自分が払わなければならないのである。それがいやなら、自分を笑い者にすればいいのである。」

「酒席という舞台にあがる前にもう一度自分の役を確認しておくといいのではかろうか、と最近しきりに思っている。」

南木さんというひとは、非常に座を盛り上げるタイプなのだろう。
看護師さんたち、若手の医師たちと一緒に、大笑いをしながら飲んでいる姿が眼に浮かぶ。

もちろん、ホラ話の名手としてw

私は大して飲めやしないのに、酒席は好きだ。
南木さんほどに「真剣」に酒席を過ごしたことのない代わり、「他人を笑い者に」する酒は好きではない。

たしかに、そういう人間は存在する。
笑い者にするためにその席に呼ぶ。
そんな人間は、たしかにいる。

それが分かってからというもの、そういう連中とは、飲まない。

ふと思う。
偏屈(そう)な南木さんではあるけれど、いちど酒を一緒に飲んでみたい。

<上州人と信州人>
上州の女性像。「世話好きであるが、でしゃばり。好奇心が強く、話し好き。好き嫌いが明確であるが、判断の基準に思想や論理はない。」

信州人。「情よりも理論が先に立つ風土はまさに日本の中のドイツである。病院の外来でも、医者の出す薬や病気のことを細かく質問する患者が多く、理屈で納得しない限り治療を受けない人が目立つ。」とのこと。

「いい加減の血」。漢字で書くと「良い加減」。
それが上州というものらしい。

誰しも自分のルーツというものを探したがるし、それこそが今の自分につながる、あるいは自分自身をつきつめていく作業なのだろう。
とりわけ作家にとって、その作業は必要な作業なのだろう。

わずか3歳で母親と死に別れ、祖母に育てられ、中学生になって再婚した父親と過ごす。
入れるはずの有名大学医学部に入れず地方の医学部に屈折した心を抱きつつ入学し医師になる。
さらに、毎月数枚の死亡診断書を書き、それが300枚に及ぼうとするときに精神疾患になる。

おそらくそれだけでも劇的な人生。
3歳から5歳、あるいは小学校低学年でもよいだろう。
その時間の母親の存在は、心のありようにどれだけの意味を持つか。
少なくとも、わが家ののぞみと清志郎と和子の関係を見ていると、あたりまえの自然な姿というものが、あれだったのだろうと感じる。

「あたりまえの自然な姿」

新聞を開けば、あるいはニュースを見れば、わが子の虐待事件。
とても正視できる報道ではない。
マスコミがニュースバリューがあるから報道するだけなのであって、これまで報道しなかっただけで。

自殺者が3万人を越えてすでに10年。
パキシルなる精神薬を飲む人が国内だけで100万人だとか。
刃が自分に向かうか、人に向かうか。
ただ、それだけの違い。

不思議なのは、向けられる対象がわが子であるということ。
私にはまったく理解できない。

よく聞くのは、幼児虐待を受けた人は同じことをしてしまう傾向にあるという。
誰しも、同じことをひとにしたいとは思うまい。
ましてわが子。

そこが精神疾患の精神疾患たるゆえんなのか。
私にとっては、その親の心の中は、「深い闇」でしかない。

【ちなみに】
もし南木佳士がパニック障害にもうつ病にも罹患していなかったとしたら
http://amoki-san.blog.so-net.ne.jp/2011-05-30
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

読んだ『私たちはなぜ狂わずにいるのか』(春日武彦 著、新潮OH!文庫) [本・雑誌]

統合失調症(文庫化当時は「精神分裂病」)における「狂気」を中心としつつ、患者、精神科医、治療という観点から「狂気」を解き明かそうとする。

<狂気という「物語」について>に出てくるパターンが興味深い。
【電波を主題とするもの】電波で操る、脳へ命令を送り込む、思考を抜き取る等々。
【脳波を読まれたり、洗脳をされたりする】
【受信器を埋め込まれる】
【盗聴器を仕掛けられている】
【何者かが自分を見張っている、尾行している】
【何者かが部屋に忍び込んで来る】
【自分に関する悪い噂がいつの間にか広がっている】
【何者かの「声」が自分に命令を発してくる】

一般人にも、分かりやすいパターン。
一般的な生活の延長線上にあるような、テレビや映画に出て来るような極めてありきたりなパターン。
それを現実のものとして認識してしまうのが、「狂気」。

問題は、その「狂気」それだけにあるのではなくて、本人の社会生活あるいは周囲に甚大な影響を及ぼすからだろう。
入院治療レベルなのだろうが、そういうひとが患者として精神科病棟にはたくさんいるということか。

春日先生は指摘する。
「狂気は我々からの隔たりゆえに関心を引きつけるのではない、むしろ誇張・生々しさ・露骨さ・独善性・キッチュといった形で我々の心に通体したものを感知させるからこそ、目をそらし難い存在なのである。
とはいうものの、患者の心の内部はやはり我々の心とは大きく隔たっているのだろう。しかも、どのように、どれだけ隔たっているのかすら判然としない。」

連続しているようでいて、断絶している。
しかし、不思議なのは、かつて「正常」な思考と行動をしていながら、「発症」によってそのような「狂気」に陥り、治療を受けることによって、また元に戻るケース。

そんなケースは、たくさんあるのだろう。
じっさい自分のうつ病だって、まさに「狂気」に陥り、そこから「生還」したのだから。

「医者としては、発狂の反対語としてどんなものを考えているか。「回復」という言葉がもっとも穏当な表現として好まれているような気がする。この語には、急激とか一気ににといった性急な感情が薄い。ゆっくりと・じっくりと、しかも本来誰もに備わっている筈の治癒力をたのみにじりじりと調子を取り戻していくような、そういった自然な響きがある。」

「急性期の激しい幻覚妄想や興奮状態を薬物によってねじ伏せて乗り切ることはあっても、また安定後も添え木のようにして薬物療法を継続するにせよ、むしろ患者が「もう治った」と焦って社会へ復帰しようとするのを「もう少し待て」と引き止め、サイドの失敗で自身を失わないように手助けをしていくところに精神科特有の応援態勢がある。」

おそらく上記の記述は、統合失調症に限らず一般的な精神疾患、とりわけうつ病についても妥当する考え方だろう。

「本来誰もに備わっている筈の治癒力」

免疫力の源泉にある自己同一性。
「自己」からなぜか出て来てしまった精神疾患も、精神の自己としての同一性、統一性を回復させようとする「治癒力」によって回復していく。
「生きる」ことの源泉イコール、おそらく「治癒力」。

この治癒力の強さ弱さが、やはり薬物治療の効果の場面でも、効果を左右するのかもしれない。

それにしても、うつ病。
どうして、心の中であのような状態を創り出してしまうのか。
堂々巡りの思考、過去への回帰、自責、無価値感等々。
しかも不思議なのは、アモキサンなる薬剤を1日に60ミリほど服用するだけで、これほど劇的かつ効果的に「回復」するという事実には、感動する。

<狂気を治療する>に記述されている精神医学の歴史は、爆笑モノ。
端で笑っているのはよいが、当時の患者は大変な苦労をした。そして、生真面目に論文を書いて実験と治療を繰り返していた医師たちの姿は、むしろ「狂気」といえなくもない。

春日先生によれば、治療の歴史(的事実)は2つの方向に分類できるとのこと。
「ひとつには、まさに身体的および精神的な刺激を与えて、その衝撃で「正気に戻そう」」といった発想のもの。

水を浴びせる、水中に突き落とす。
池にかかった橋を渡らせ、仕掛けによって池に転落させる。
旋回機なるもの。患者を椅子や寝台へ縛り付けて、機械仕掛けでぶんぶんと振り回す。
洞車なるもの。早い話、ハツカネズミが遊ぶ回転する輪の人間版。

びっくりさせれば「正気に戻る」と考えたらしいが。
涙ぐましいというか、素朴というか。
しかつめらしく「理論づけ」をしつつ、実験(治療)をして、それが効果を生じたかを確かめる姿は、やはり滑稽でありグロテスク。

「いまひとつは、身体から「狂気の素」を輩出させ、心身の浄化を計ることで「正気に戻そう」といった発想のものである。」

嘔吐剤、下剤の使用。狂気と腹部神経に相関があるといった考えも関連していたらしい。心身の衰弱によって興奮の鎮静を期待したらしい。

うつ病も、ひとによっては、というかふつうは不眠と早朝覚醒も症状のひとつらしいので、沈静化の薬剤の使用がふつうだろう。
幸い私には、そのような症状はなかったし、現在もない。

安保先生の本だったかに、交感神経は午前4時頃から徐々に働き始めるとあった。
早朝覚醒の「早朝」というのが、午前3時や4時であるとすれば、交感神経の興奮が、「徐々に」ではなく「一気に」活性化してしまうということなのか。

さらに、「心身の浄化をはかる」系の「治療法」としては、持続睡眠療法、インシュリン・ショック療法(かなり危険だった模様。そりゃそうだろう低血糖状態におけば死の危険はすぐそこにあるのだから)などがあったらしい。

最後に出てくるロボトミー手術。
ここまでくると、ほぼマッドサイエンティスト。
ちなみに、ロボトミーのつづりは、lobotomy。
前頭葉、側頭葉の「葉」を意味するlobeに、解剖anatomyのtomyをくっつけた造語とのこと。
ロボットみたいな無感動な人間になってしまうことが多いから、そういうRobotomyだとばかり思っていた。

考えてみれば、「ロボットみたいな無感動な人間」にするために手術するはずはなかろう。
「マトモ」で、まっとうな、もともとの活力ある人間像こそが「治療」の目的だったはずだから。

<狂気を治療する>に出てくる「インフォームド・コンセント」。
ここの章は、非常に迫力がある筆致。

「狂気に陥った者の意思表示は全面的に認めるべきなのか、たとえ本人が理解不可能な状態においても「正常な」人間に対するのと同じ手続をすべきなのか。形骸化した手続きであろうと、それを行うことにこそ意義があるのか?(中略)それを考えるうえでは、狂気を「脳の故障」といった概念で把握していくか、それとも「非常に極端かつ不器用な形をとった自己表現』ないしは『症状には隠蔽されたメッセージがある』」ととらえていくかで、大きな違いがでてくることであろう。」という。

そもそも手続きの目的は、あくまでも患者のよりよい治療成果を得るためなのであって、インフォームド・コンセントはその手段にすぎない。

医的侵襲というものを患者自身の判断のもとに行わせる、あくまでも患者本人の意思のもとで行わせる、あるいは、「狂気」に類似した実験的な医療から患者を守るためには、インフォームド・コンセントは不可欠な手続きだとはいえる。

しかし、正常な判断能力を欠いたと一般的に考えられる状態であるかぎり、「正常な」人間と同様の手続きをする必要はあるまい。

強い自殺念虜のあるうつ病患者には、電撃療法が極めて効果的だとの記述があった。
春日先生も、もし自分がそのような状態に陥ったときには、電撃療法を受けたいという。
万が一、私も、このうつ病が再燃ないし再発し、さらに重篤な精神状態に陥ったとしたら、進んで電撃療法なるものを受けてみたい。

電撃療法の際、最近では全身麻酔をするらしいが、その副作用(合併症)について、春日先生は指摘する。
たしかに、麻酔薬が脳にでも回ってしまった日には、取り返しのつかない事態が起こることも予想される。
もっとも、果たしてそのとき、自分に、きちんとそのリスクについて質問をし、納得するだけの精神的な余裕が自分に残っているのかは、大きな疑問だが。

簡単なこと。
家族にその治療方法についての依頼をしておけばよい。
あるいは、書面できちんと依頼をしておく、とか。

<狂気を治療する>の「なぜ狂気にクスリが効くのか」の「病因」と「病原」の対比に関する下記の文章が興味深い。

「病因」とは、心理的要因(さまざまなストレスとか失恋とか性格傾向とか)や社会的要因、さらには遺伝による脳機機能の脆弱性などが挙げられる。しばしば病気の「原因」として取り沙汰されがちな要素であり、「きっかけ」と環境と素質とを併せた概念である。ただし、それだけでは狂気に陥らない。「病原」が必要であり、これは脳の機能異常であり、それがそのまま精神症状として発現することになる。「病原」とは、実際のところ脳内の生化学的異常とほぼ道義であると考えて良い。」

なるほどね。

アモキサンで脳内の生化学的異常が抑えられ、元通りの活動に戻り「回復」したとしても、心理的要因がないがしろにされているかぎり、やはり元の木阿弥ということになるのだろう。

春日先生の言葉によれば、「「病因」—環境や素質や心理的要因や個人的な経緯などをトータルしたもの、つまりその人の、人となりを綴った物語—をないがしろにしては、本当の治癒を望むことは叶わない。」

「人となりを綴った物語」
新たな生き方。新しい自分の獲得と言い換えることもできるのだろう。

担当のドクターとの会話の中で、「少なくとも今の考え方と生き方を実践しているかぎり、再発のリスクは極めて小さいと言えますね」ということを言われたことを思い出す。
ありがたいこと。

<狂気を選びとることができるのか>に出てくる「拘禁反応」や「拘禁精神病」に陥るしくみについての指摘が興味深い。
「辛い境遇を生き抜くための精神変容の3パターンとして、①徹底的に想像力の世界へのめりこむ、②精神を冬眠に近いフラットな状態にしてしまう、③混乱や混沌の状態に精神を泡立てる」

①が冤罪妄想だったり、幻聴や幻覚、②がいわゆる刑務所化(プリゾニゼーション)だろうし、③が自らの身体を傷つけたりするのだろう。

なお、本書末尾に掲載してある引用文献、参照文献には圧倒される。
やはり春日先生というひとは、単なる雑学家、キッチュなものの収集家wばかりではなくて、大変な勉強家だった。
改めて、本を通じた出会いの素晴らしさを痛感した。
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

読んだ『幸福論』(春日武彦 著、講談社現代新書) [本・雑誌]

別段、春日武彦フリークになったわけではないのだがw、彼の「あ〜でもあるし、こ〜でもある」的な「可能性思考」が面白くて、また彼の著作を読んでしまった。

それともうひとつは、このまえの『不幸になりたがる人たち』を読んでいて、「不幸」というもののわれわれの日常とのほんのささいな連続性と不連続性を指摘する著者の「不幸論」に対立すべき、「幸福論」というものを知りたかった。

また、「私は幸福を感じたことがない」的なことを非常に限定的に「幸福」を定義したうえで書いていたことから、なぜ限定するのか、限定をとったときにどういう感じ方を著者はするのかを知りたかった。

やはり彼は幸福論を書いていた。
とはいうものの、本書を読んで、結局のところ「幸福論を書きながら不幸論を書いてしまう」精神科医の性というものを深く感じ入った次第w

『17歳という病』http://amoki-san.blog.so-net.ne.jp/2010-04-07-1のときと同様に、著者にとっての幸福「感」(観)というものはどういうものかをきちんと披瀝してから論を進めるところが、好ましい。

なんと1ダースもの著者の幸福な体験から始まる。
いちばん印象に残るのは「②猫の遍在」という一文。
梅崎春生の「猫の話」という小説の話なのだが、読書家の一面を相変わらず見せてくれる。
(それにしても、著者の読書量というのは半端ではないし、「手元にないので」と言いながらよく内容を紹介する文章にぶちあたるのだが、その詳細な記憶力というにも驚かされる。)

私はこの一文から、「死」が「生」に転化することを感じた次第。
著者は「救済」をこの小説から感じたというが、たしかにそのとおりだろう。
私は「命」というものの連続性というものを感じた。

<不幸の中の幸福>の章に出てくる「ミュンヒハウゼン症候群」なる精神疾患に関する記述。
一種の病人マニアで、何度も入院くらいならばまだいいが、これが手術マニア、開腹手術マニアあたりになると、怖い。
早い話が急病人を装って(実際に毒を服用したり身体を深く傷つけることも珍しくない)急患として入院し、手厚い治療を施されることに喜びを感じるというものである。」という精神疾患らしい。

たしかに、子どもの頃、熱を出して、母に優しくしてもらうと幸福感にひたれた。
その代償行動なのだろうか。

グロテスク極まりないが、そういうのが好きな人間というのがいるというのだから、世の中、広い。
著者は、「呪われた人生」とする。

(しかし、これのどこが「幸福論」の記述なのかw)

強迫神経症のH氏の治療の現場での話。
「精神科医療の現場では、必ずしも「治す」ばかりが能ではない。適当に病気であることを認めてあげつつ社会へ適応していけるようにリードするところに勘どころがあったりするのである。」

たしかに、強迫神経症あたりになると、それが「生き甲斐」になっているやもしれず。その部分を取り去ると、「生きる証」がなくなってしまい生活をするうえでのエネルギーが枯渇するのかもしれない。
その意味で、「それはそれとして認めつつ社会に適応させる」という方向は、おそらく正しいのだろう。

結局は、精神疾患が精神疾患たるゆえんは、社会との折り合いができないことに尽きるのだから、その折り合いさえつけることができれば、少々の神経症の残存など取るに足らないエピソードなのかもしれない。
(まわりがどう感じるかは別として)

結局出て来てしまう「不幸論」w
<幸福と不幸との間>の章に、不幸の条件が書かれている。
「わたしにとっては不幸とは、①ひとつのエピソードに収斂してしまうものではなく、もっと持続的で曖昧なもの、②その正体を言葉で容易に言い表すことは困難、この二つの条件が必要な気がするのである。」

②は、「条件」たりえない。
①の「持続的で曖昧」というのは、なんとなくわかる。
結局、下世話にいえば、「気分」ということかw
少なくとも、単なる事実ではないのだ、ということ。

別な表現。
「不幸の要素が退屈と不全感からなる」ということ。
精神疾患の方から眺めれば「ヘヴィーな精神疾患はとりあえず除外して、せいぜい神経症とか軽い人格障害レベルの人に話を限れば、表面的な訴え(不安や焦燥や不眠や抑鬱気分や過呼吸や動悸や過剰なこだわりなど)の下にあるのはどうにもならない不全感と、退屈という砂漠の真ん中に立たされた困惑であることが常なのである。」という。

そして、「「なるほど、あなたは不幸ですね」と言われたがっているニュアンスがある。不幸であると断定されることによって絶望を感じるのではなく、逆に自分の立場が明確になり、充実感を得られて安らぐところがあるらしい。」ということになる。

めんどくせ〜w
まさに一般的な「不幸」は、そのひとにとっては「幸福」という逆説的な話に収斂してしまう不思議さ。

あはは、と笑える一文。
「「わたしは幸せです」と自ら発言する人とはどんな人物なのか想像してみよ、といった設問を与えられたとしよう。(略)たぶん、結婚式を挙げている最中の男女か、さもなければ新興宗教にのめり込んでいる人物、と答えるだろう。」

その理由は、「どちらも幸福という枠組みが予め決められ、理性が麻痺し、さらに羞恥心が消し飛んでしまう状況にある。」からw

たしかに、自分の結婚式の披露宴のビデオは、もう二度と見たくはないw

「猫を投げる」という見出しの一文は、「余談である」といいつつも、まさに春日版「幸福の断片」。いい話。

「変化に喜びや充実感を覚える心性ももちろんあるが、それはあくまでも精神的なタフさを前提としているのであって、もしかすると変化や変革に価値を置く発想は健康で丈夫な人間ゆえの鈍感さや残酷さに通じてさえいるのかもしれないのである。」

南木さんのエッセイにあった若い医師の言葉「なんでもうつ病でかたづけば苦労はないですけどね」。
その残酷な物言い。鈍感さ。

しかし、仕方のないことだろうと思う。
骨折や風邪ひきであれば、誰しも経験することであり、きれいさっぱりと治る。
ところが、この精神疾患たるもの、うつ病しかわからないが、なった人でなければこの苦しさも怖さも理解できないし、想像することすらできまい。
(おそらく、そのことが「孤独感」につながるのだろう)

まして、同じ医師であっても専門を異にすれば診る患者も違う。
分からないのは当然といえば当然。

たぶん「想像力」や「共感」というレベルでもないことだろう。
想像を絶する精神状態になるのが、精神疾患というものなのだから。

ここで出てくるのは、おそらく五木のいう「悲」の心なのかもしれない。
励ますのでもなく力づけるのでもない。
ただ寄り添い、手を重ねる。
むずかしいことだとは思うが、きっとそれがうつ病にかかった人への対応のひとつだろう。
きっと。


コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

読んだ『裁判所が道徳を破壊する』(井上薫 著、文春新書) [本・雑誌]

著者の井上薫氏は、元裁判官。
あまりに短すぎる判決を書くということで物議を醸し、新聞ネタにもなった。『狂った裁判官』(幻冬舎)は興味深かった。
そこにはさまざまな裁判官のタイプが紹介されていた。

とりわけ「蛇足判決」論(判決の理由中に主文を導く必要不可欠な事実以外は書くべきではなく、書けば違法な判決になる)の「ユニークさ」は、あたりまえのようでいて主張しにくいことを分かりやすく論述してくれていて、おもしろさという点では評価できた。

この考え方からすれば、このまえの公務員の政治活動に関する高裁判決の歴史の流れや欧米での取り扱いに関する下りは、「蛇足」の最たるものと切って捨てられる運命にあるのだろう。

さて、今回の本。
3つの柱で構成されている。

まず、破産免責者20万人を「安易」に許す裁判制度が、日本人の道徳を破壊するものだと指摘し、

次に尊属殺人罪違憲判決が日本人の道徳を破壊するものだと断定し、

トドメは東京都の卒業式における国旗掲揚君が代斉唱に反対する教員の訴訟事件の一審判決が道徳を破壊するものだと論断する。

形式論理の見事な整合性は、さすが東大の理学系の大学院を出て、難関の司法試験に合格し、裁判官に任官した明晰な頭脳のあらわれだろう。

しかし、違和感が残る本。

たしかに、法曹、とりわけ裁判官は法律に事実をあてはめ法律効果の存否を判断する存在。
拘束されるのは、憲法と法律と裁判官としての良心。

「直感が裁判を導く」と断じたのはホームズだったか。
忘れた。

プロの裁判官たるもの、認定された事実については、職業的な直感というものによって「落としどころ」というものを直感するものではないのか。

あるいは、当事者のどちらかを勝たせる社会的、制度的必要性を直感し、法律それじたいはその直感が許される判断かを整合させる、つまりは、「床屋談議ではないよ」ということを示すもの)なのではなかったか。

その意味で解釈論というのは、その整合性を、法制度のもとでの許容性を納得させるための「技術」だったのではなかったか。

心太のように、法律を事実に当てはめて出てくるような判断が求められる事件など、本来、訴訟になるとも思えない。

典型的に現れる違和感は、国旗国歌訴訟の一審判決を批判する部分。
判決文にあらわれる「卒業式の厳粛さ」という言葉をキーワードに、判決の立場をこきおろす。
「公序良俗」にあたるような、なんでもありのどうとでもとれる「厳粛さ」という言葉を駆使する。
法律的な判断ではなく、人によって感じ方の違う言葉をことさらに強調し、こきおろす。

おそらくフェアではあるまい。

尊属殺人罪違憲判決は、裁判所に委ねられた権限を越えた憲法裁判所的判断だと断ずる。
要するに、適用違憲をすべきだという。

理由はさておき、最高裁ですら尊属殺人罪の違憲性を指摘せざるをえなかった。

著者は、違憲判決が指摘した「親への尊重報恩は社会生活上の基本的道義であり、このような自然的情愛や普遍的倫理の維持は、刑法上の保護に値する。親殺しはこのような親族の結合の破壊であって、それ自体人倫の大本に反し、このような行為をあえてした者の背倫理性は強く非難(以下省略)」されるべきだという部分を当然の前提として肯定しているようだ。

子を放置し虐待し、死に至らしめる現代の社会には目を向けず、親を殺害する本件のような希有な事例をあえて取り上げ、その「道徳」を強調する著者。

著者の道徳観というものは、本書に直接記載されているわけではない。
「いまある常識的なもの」的な、多数派の意思を代弁するような考え方がすけてみえる。

否、おそらく著者には、そのような「道徳」に関する思考などには何の興味もないのではないか。

はたして裁判の機能は、単なる機械的な心太判決ばかりなのか。
国会内閣は多数派が支配し、その「多数派」の正当性とて選挙制度のゆがみが結果するものであって、真の正当性たりうるかはまずおくとしても、そこから漏れた少数派のやむにやまれぬ利益を確保するのが、裁判所の使命なのではなかったか。

あるいは、多数派が形成する政策決定による矛盾それじたいを救うのが、裁判所の役割ではなかったか。

よもやアメリカで違憲審査制度が発達したのが、宗主国イギリスの不当な課税をさせないという植民地国家のやむにやまれぬ抵抗だったことを著者は知らぬはずはあるまい。

多数派支配からおちこぼれた、もともと政策決定では顧慮されない少数派の利益を確保する、その意味で、あらたな政策形成機能というものを裁判所は違憲審査制度によって実現すべき立場にあるのではないか。

地裁レベルであれ、簡裁であれ、係争事件を解決するにあたり適用されるべき法令じたいが憲法に違反すると判断したならば、ためらわず行動することが、場合によっては義務づけられているのが裁判官というものの「業」だろうに。

もとより、裁判所がするのは法解釈なのであり、積極的な政策形成の権限があたえられているわけではなく、そのような訓練などされてはいない。
さらに著者は、そのようなことにはまったく関心はないだろう。
あくまでも、あるがままの法令とその社会状況を追認するだけの法律解釈。

しかし、訴えという手続きを通じて制度に圧殺され、救われないひとたちの想いや心を取り上げて、法律的な解決を与えるというのが、裁判官に期待されていると思うが、違うか。

柳田さんの言葉を借りれば、著者は徹底した3人称の専門家だと思われる。
そして、意図してか知らずか、結果的にいわゆる保守イデオローグになっている。

精緻な形式論理からは何ものも生まれない。
論理で法律問題を解決するのは、おそらく法律家に期待されていることではあるまい。そんなことは職業的専門家としてあたりまえのことなのであり、専門家にはそれ以上のことが求められている。

本書末尾にある三権分立の議論は、あまりに形式論理。
別に間違ったことが書かれているわけではない。
必要条件だけは十分に書かれている。
中学校の教科書としてはそれでよいだろう。

そもそも、多数者に法律など必要なのか。
もちろん強欲資本主義の末路が一昨年のリーマンショックだとしても、資本の論理なるものは、するりと法律の網をくぐりぬけるものだろう。
それが本質だろう。

いや法律など、弱者のためなどと考えることそれじたいが「青い」議論だろう。
「何か歯止めがあるかのように印象づけること」が制度というものだろう。
それが分かっていながら、あのような形式論理をふりかざす。
怖いひとだとつくづく思う。

たとえば戦後補償問題。原爆訴訟。公害訴訟。
法の網からこぼれた事象をギリギリの部分で裁判所が「救う」。
多数派支配の政策決定では助けられないひとたちのことを著者はどう考えているのか。

おそらく興味はないだろう。

万が一、私が法律紛争に巻き込まれても、この著者には絶対に依頼しないだろう。

ただしかし、君が代訴訟のやり方というのは運動論を訴訟の場に持ち込むという点であまりにあざといやり方、キャンペーンの場として裁判所を利用したという点で、ちょっとだけ疑問は残る。

とはいうものの、やむにやまれぬ教員たちの心の叫びとして訴訟という場を通じて何らかのアピールを世間に示したいという気持ち、想いは痛いほど感じる。
いずれにしても、この事件は最終的には教員側の敗訴で終わっている。
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

読んだ『冬の水練』(南木佳士 著、岩波書店) [本・雑誌]

まず、大扉がいい。
岩波にしてはw とてもいい。

<トラのいる十二年>
「精神を病んだ患者にとって自己開示の相手を間違えることほど取り返しのつかない悲劇はない」

なるほど、そういうものか。
私は、ほんとうに幸運な患者だったのだろう。
いまは病床にある担当医との出会い。
その代診のドクターの率直さ。あたりまえさが、ことのほかありがたい。

2回ほど「遭遇」した曜日の違う代診の医師ほど、手に負えない精神科医はいまい。
ともかく患者と目を合わせない。
「変わりないですか?」と聞いてお仕舞いw

「この1カ月、どうでしたか?」と問い掛けるのが医師というものだろうに。
最初にこのレベルの医者に出会っていたら、いまの私は居ないに違いない。

患者が納得して診察を受けるのだから、自由診療で好き放題の料金を取る精神科医もあっていいだろう。
しかし、保険医療を標榜する以上、あたりまえの医師であってほしい。

とはいうものの、歯科医の自由診療というのは分からないでもない。
彼らは、おそらく技術屋さんではあっても医師ではないのだろうから。
しかし、精神疾患という、場合によっては自殺の危険すらある病に対して、自由診療というカネの切れ目が縁の切れ目というのは、どうにも理解しかねる。

もっとも、自由診療をする精神科医は、費用負担を含めた患者のスクリーニングを厳格に行い、カネを持って来れないような「危険な患者」はハナから相手にしないのだろう。
下手をすると、カード決済をするのかもしれない。
ローンでも組ませて。

「美しく繊細なものの薄命と、図太く鈍感なものの長命」
いや、自由診療をする精神科医のことではなく、本書に出てくるトラとシロに関する南木さんの記述。

「すべての気力の元にあるのは怒りの感情なのかもしれない」
子猫時代のトラとシロが家中を暴れ回ったころの南木さんの感想。

私の場合、回復のプロセスの最後に怒りの感情が出て来た。
何を食べても味がなく、そもそも食欲すら失せる。
仮面を被せられたように、表情筋というものが存在しなくなったような無感覚さ。
思考の停滞と過去への無意味な回帰。
認知のゆがみどころか、恐ろしいまでの想像に押しつぶされそうになり、何事をするにも億劫、鏡に映る自分すら直視できないという現実に直面し、ようやく病識を得て受診。

まず回復を直感したのは、笑いであり、冗談を言い始める自分であり、食事のおいしさ、読書をして感動をする自分に気づき、のぞみや清志郎の子どもじみたふるまいに立腹し、夫婦喧嘩で怒りを爆発させ、結局、精神的には病前の自分に戻れた。

結局、南木さんの指摘「怒りが気力の元」というのは、正鵠を射ているのだろう。

<麻雀>
「生きていればいいときもあるし悪いときもありますよ。運を天にまかせるっていうのはとりあえず死なないでいればなんとかなるってことなんだと思いますよ。」

病前の私。
文字だけだと軽いし、バカかこいつは的なヤツにしか感じられない言葉。
しかし、病を経た南木さんであれば、言葉には重みがあるというもの。

<医局の孤独>
「大脳皮質をあまり使わなくても、できあいの反射回路にゆだねておけばとりあえず一日をなんとかやりすごせる「仕事」の時間」

脳外科医の橘滋国医師の談話。『複雑系としての身体』(河出書房新社)からの引用。
「肥大化した人間の大脳を興奮させるためには大量のエネルギーがいり、これは生命維持のための省エネの基本原則に反するので、最もエネルギーを必要としない反応形態として必要とされたのが脊髄反射だった」という説明。

<リアルな料理>
「互いの分からなさの度合いを測り合い、その段差を埋めようと努力して語り合う機会を多く共有することでしか、死という大事には対処できない。」

濃厚な時間を共有した者同士であればこそ、相手の死を強く感じることができる。

<最後の仕事>
「子育てを終え、孫たちの成長も見とどけたおばあさんたちに残された最後の仕事は、元気でおじいさんを看取ることなのである。」

農家の元気そうなおばあちゃんの姿が眼に浮かぶ。
褐色の肌に手ぬぐいの姉さん被り。
にっこり笑う顔には深い皺。

がっさがさの掌。
土の匂いのする掌。
そういうひとに看取られるおじいさんというのは、やはり幸せなんだろう。

<猫に小判>
「自分の健康のことを第一に考えてたら、こんなとこで徹夜の観測なんてできないですよね」

選ばれし者?
観測所の研究員の言葉。

でも、そんな研究第一で自分の健康のことを考えていないと。。。。。
いや、そのひとの人生。
好きにやるがいい。

<臨床講義>
「乱暴に言い切ってしまえば、受験偏差値が高いだけの頭と、本当に学問に向く頭がきっちりと淘汰を受ける場所が大学なのだ。」

たしかに研究者を選別する場所という意味はあるし、南木さん曰くの「高等職業訓練校」である医学部においては、臨床医と研究者の選別ということは役割論としてはあるといえる。

ただ、南木さんの当時の大学受験というものは、結局そういうものだったのではないのか。
「そういうもの」→ただの受験偏差値優等生→医学部

<医者の言葉>
「遺伝情報や幼いころから刷り込まれた世界観のまったく異なる矛盾だらけの二人が暮らしているのだから、平穏に見える日常生活の場が突然修羅場と化すことがあるのは当然なのだ。」

開高健は60歳前に死んだ。

再登場↓ この医師のことをほんとうに南木さんはムカついている。

「なんでもうつ病でかたづけば苦労はないですけどね」
種明かしが書かれていた。
「私がいまでもこの男を許さないのは、病む以前におなじような言葉を私も用いていた可能性が高いからである。彼は鏡に映った元気なころの私にほかならなかったのだ。」

「想像による殺人」の事例は、ほんとうに怖い。
「精神科医や内科医の言葉は、その身の毛もよだつ鋭利さが目に見えない分だけ外科医のメス以上の危険物と化す場合がある。それなのにこの凶器の取り扱いを教えてくれる、あるいは教えられる資格を有する人は極めて少ない。」

臨床の実際を教える時間というのは、学部レベルではないのではないか。
どんな職業だってそうだろう。
聞いてないよ〜、そんなの。
というのにぶつかりながら、成長していくものなんじゃないのか。

もっとも、ふつうの職業と決定的に違うのは、医師というものに付随してしまう言葉の怖さ。
無関心な医師がふつうだろう。

<やめる>
「私の場合、若さとはとんでもない鈍感さの別称でしかなかったのだ。」

南木さんに限らずw
若さとはそういうもの。

「タバコをほしがっているのは脳だけなのであって、脳を支える下部身体、つまり心臓や肺にとって喫煙は百害あるのみ。」

なるほど。
「ニコチンを吸うことでしかまぎらせない類のストレスがあるのを私はよく知っている。」

はたして、私の仕事が百害を押してまでまぎらせることができない類のものなのか。

<医者への謝礼をめぐる鼎談>
じつに愉快な一文だった。

<けつの穴>
小学生のころだったか、中学生のころだったか、父親に「ケツメドのちっちゃなヤツ」という言い方を教わった。
小心者、剛胆ではない人間の言い方。
関東ではしばしば使う言い方なのだろうか。

南木さんらしい一文。
「このけつの穴が大きく開くのは、死後の処置で誰かに綿を詰められるときだけなのかなあ、とのグロテスクな予感を抱きつつ。」
バーミングというのは、そういうことまでするのか。

<好きなもの>
「結局、私が好きなものとは、ずばり私にないもののことであり、それはいろんな言い方ができるけれども、要約すれば、明日を楽観して生きる力なのだ。
そういうことばかりいろんなところに書き散らかしていながらけっこうしぶといじゃないの、との周囲の声も、あるにはある。」

明るさを感じる一文。

<太宰治の顔>
「うつ病の極期に、生きてあることのたまらない心細さを体験したゆえ、いまはからだがリラックスできる状態をなによりもありがたく感じる。」

たしかに、極限期にはどれだけ肩や体に力が入っていたのかは、なってみないとわからないこと。
私はレキソタンとアモキサンで救われた。
あたりまえであることのありがたさ。

「書かれたものに当時の自分の状況があらわれすぎていていたたまれなくなる。」
読んだときに、非常にいやな気分になったとき以上に感じることなのだろう。
ほかならぬ自分自身のことなのだから。

私も、この前南木さんのエッセイを読んでいるときに、自殺を考えるシーンで気持ちが悪くなった。
体調管理、心の管理のバロメーターになることにそのとき気付いた。

心とからだは連動している。
つくづく思う。

【ちなみに】
もし南木佳士がパニック障害にもうつ病にも罹患していなかったとしたら
http://amoki-san.blog.so-net.ne.jp/2011-05-30
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

読んだ『眼の探索』(辺見庸 著、朝日新聞社) [本・雑誌]

南木さんのエッセイに書かれていた本なので読んでみた。
他によく登場するのは中島義道と大森荘蔵なのだが、なんとなくむずかしそうなのでパスしているw

義兄は彼らの本まで読むそうだが、彼ほどの読書家ではない私にはそこまではカバーできない。

さて、本書。
<骨の鳴く音>
永山則夫の死刑執行に関する一文から始まる。
「応報主義の声に応えて、一挙四人を処刑したことの底意に、人を脅して世を統べようという、法治に見せかけた暴戻の気色はないか。人というものの、無限の可変性を否定する野蛮な知性が、この国にいま蔓延してはいないか。」

「人を脅して世を統べようという、法治に見せかけた暴戻の気色」という表現。

たしかに、「人を脅して世を統べ」ることは、人を犬のように扱うことにほかならず、さりとて死刑という究極の刑罰が現に行われる「兇悪な」犯罪の抑止力になるともとうてい思えず、立証もされないという事実からは、「法治に見せかけた暴戻の気色」という批判も、もっともなこと。

(それにしても、「暴戻」なることば、本書を読んで初めて接した。別に、この言葉に限らない。本書には、あたりまえのように(私にとっては)むずかしい日本語が次から次へと繰り出される。それでもなお、読み進められるのは、(ともかく読んでしまおうという雑駁かついい加減な私の性格と)文体のリズムと日本語の表現力、豊穣さというものを感じるからだろう。)

「無限の可変性」
このことは、『死刑囚の記録』http://amoki-san.blog.so-net.ne.jp/2010-03-22-1にも記述されていたこと。
ただしかし思うのは、なぜその罪を犯すまえに変われなかったのか。
死刑という峻厳な刑罰の宣告を受けたあと、無限の可変性を現実化させたとしても、そのことが過去の事実を消し去りはできまい。

たとえ幼少期の苛烈な生活体験があったとしても、同時代に生きる仲間である他人の命を虫けらのように射殺してしまうという行為。当然の結果なのか。

「幼少期の体験」ですべてを語り尽くすことができるのか。

同じ体験をしつつも、ふつうはふつうに暮らすのではないのか。少なくとも、当然のように4人も射殺はしまい。

「人を思いやる心」それじたいが欠落していた、それを共感できる人生を歩めなかった不幸。

その不幸によって生じた「無知」が犯罪を起こさせたものだとしても、「人を殺してはならない」という、ごくごく自然な生き物としての感覚(仲間を殺さない)までもが欠落していたというのだろうか。

もしそうであるのなら、むしろ精神状態それじたいを問題とすべきだろうし、果たして永山則夫は、どうだったのか。
池田小事件を起こした犯人であれば、もはや矯正可能性もへったくれもないわけで、はたしてこのような人間にまで、辺見さんは死刑の執行を問題視するのだろうか。

<言葉の徒雲>
パウダーピンクの女性が、エッセイのなかで生き生きと動く。
一編の小説のプロット。

<悪意の哲学>
地雷原を歩くと皆、泥鰌すくいを踊るかのように歩くという。
79年の中越戦争の当時、中国軍はベトナム側が敷設した地雷原突破に、馬を疾走させたという話。

即座に思い出したのは、鳥越さんの『人間力の磨き方』http://amoki-san.blog.so-net.ne.jp/2010-02-15-1に出ていた裸足の子どもが地雷原を走り抜ける話。
もっと怖い。

<言葉と生成>
日米新ガイドラインが当時から話題になっていたのだろう。
本書には、「周辺事態」に関するコメントがよく出てくる。
日本語としての抑揚のなさとして、語法の破綻の例として。
「発酵と醸成」を経て、日本語として意味をなさない言葉が実体をともなってくる。

<風景と身体>
タマオシコガネの描写がある。
「何度も何度も何度もそれを繰り返している。虫の親も祖父も曾祖父もそうしてきた。千年も万年も。」

エチオピアの山の中での出来事。
悠久の自然を当然のように感じる辺見さんの文章。
「たしかなのは、つづら折りを右に左にめぐりさまよい、幾度も登ったり下ったりしているうちに、ぽろぽろと何かがこの身から落ちていく感覚だけだ。」

そういうものか。

もっとすごい描写。
「気がつけば、おびただしい星屑のなかに、私は仰向いてぽっかりと浮かんでいるのだった。眼のすぐ先をいくつも流星がかすめていく。億万劫の時の運河のただなかを、無量の星々に交ざり、わらしべみたに私は流されていく。過去でもない、未来でもない、ただ眩いだけ、虚しいだけの空劫の時を漂っている。夢か、あるいは、もう死んでしまったのかと思った。」

何年か前のお盆の夜、子どもたちと流れ星を見にスキー場にでかけた。
天の川がくっきりと流れていた。
星座がはっきりと見えた。
「あれがヴェガ、それがアルタイル」と覚えたての星座名を清志郎が教えてくれた。

いくつもの流れ星が、長い尾を引いて飛ぶのをみたが、「眼のすぐ先」をかすめるほどには飛ばなかった。
そういう光景にあこがれる。

「始原の圧倒的事実に感動しているのは、この体である。体内の劫初の記憶がしきりに明滅するのだ。星屑をかきわけかきわけ歩みつつ、天啓に打たれるように得心したことだ。」

アラスカの氷河の上に飛ぶ流星を見た星野さんも、同様の感覚を得たのだろうか。

もっとも、「身体が精神である。精神と肉体は、同一の現実に付けられた二つの名前にほかならない」(市川浩『精神としての身体』)という引用は、私にはむずかしい。

<革ジャンパー>
95年3月20日のサリン事件に関する一文。
被害者のひとりとなった外国人を助け出したときに、着ていた革ジャンに彼の涎がついたという話。

「マスメディアは凶悪事件を賦活剤とする化け物のように勢いづいた」という一文は、哀しい。

思えば、同じ年の1月17日。
阪神・淡路大震災が起きたのだった。6433人もの方が亡くなった。
その心の傷も癒える間もなく、サリン事件は起き、マスコミはそちらに関心を向けた。
そしていま、年間3万人を超える自殺者。
五木に言わせれば、年に5回以上もの大震災が起きていることになる。

それにしても思うのは。
辺見さんというひとの語彙力の豊富さと私自身の日本語の知らなさ。
最後の最後まで、分からない言葉の連続だった。

<あとがき>に出てくる「なんとか風景の見えない肯綮に中ろうとしてみた」という表現。
三省堂の辞書ことわざサイトによれば、どうやら「急所をつく。ポイントにあたる」という意味なのだとか。
そもそも、ふりがながないと読めない(もちろん、本書にはふりがながついている)。

http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2008/03/31/【今週のことわざ】肯綮に中る/
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

読んだ『出家とその弟子』(倉田百三 著、ワイド版岩波文庫) [本・雑誌]

もはや古典に類する書籍だし、著者名とタイトルは記憶の隅にはあった。
五木の『大河の一滴』に、この本のことが書かれていたのを思い出し、初めて読んだ。
『大河の一滴』には、「当時の青年たちのあいだに大変なセンセーションを巻き起こし、大ベストセラーになりました」とある。

岩波文庫版が98年当時で88刷、新潮文庫版でも平成8年で79刷というから、時代を超えたベストセラーということになる。

浄土真宗の開祖親鸞と歎異抄を書いたといわれる弟子の唯円の戯曲。
ドラマチックなんぞというものではない展開とディテール。
唯円の青春小説・恋愛小説であり、父と子(親鸞と息子善鸞)の葛藤、組織の論理などがふんだんに盛られたダイナミックさに、驚く。

これを僅か26歳で書き上げた倉田百三という人の天分に、天の配剤の妙を感じる。

興味深いのは、浄土真宗の教えとキリスト教の教義の両方が色濃く出てくること。
これが出版されたのが1917(大正6)年。
ヨーロッパでは第一次大戦。ロシア革命。
その後、日本は対華21箇条要求。シベリア出兵。
不穏な時代に入り込む直前の、まだまだ大正デモクラシーの時代。

恋愛小説の部分は設定それじたいが遊女と若い僧侶という「いかにも」の設定なのだが、それだけに恋愛の神髄が描かれる。
そこに宗教的な意味付けがなされていく。

そもそも恋愛感情なんてものは一種の熱狂(狂気)だろうし、「大いなる麗しき美しき幻想」なくして結婚は成り立ち得ないw、などという冗談(現実)はともかく、唯円とかえでのやりとりは、まさにロミオとジュリエット。

恋愛と信仰に関する親鸞と唯円の会話は、まさに人間親鸞を感じさせる。
フィクションだとは分かっていても、つい引き込まれてしまう筆力には感動する。

かえでへの想いと苦悩と歓喜を正直に告白する唯円の姿は、いつの時代も変わらないものだろう。
むしろ、当時の若者のほうが純粋だったのかもしれず。

親鸞の宗教的観点から恋愛を語るシーンには、非常なる説得力がある。

クライマックスは、大教団に育った浄土真宗の始祖である親鸞と勘当された息子善鸞との和解が期待されるシーン。

たしかに、善鸞のしでかしたことは、宗教を持ち出すまでもなく、常識的にみてもありえないこと。その意味で、勘当という仕儀に至ることは当然なのだろうし、ましてや大教団の教祖として赦すことは組織論としてもありえないこと。

葛藤なくしてドラマはありえない。

偉大な宗教家としての親鸞もひとりの人間であり父親であり、宗教家として念仏を信じるかと、臨終の際に息子に問い掛ける。

しかし、あまりに誠実な息子は、嘘はつけない。
失意のままに親鸞は絶命する。

たしかに、善鸞が心にもなく「信じます」と言ってしまっては、ドラマとしての精彩を欠くし、ただのお涙頂戴の新派になってしまう。

それにしても、久しぶりに感動というものを味わった。

コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

読んだ『急な青空』(南木佳士 著、文芸春秋) [本・雑誌]

南木さんのエッセイは、『生きのびる からだ』http://amoki-san.blog.so-net.ne.jp/2009-12-21以来だけれど、いったい何冊読んだのだろう。
別に何冊でもいい。
読みたいときに読む。
他に関心があれば、そちらを読む。

読書なんて、そんなもの。

今回の第一印象は、「明るさ」だった。
もとより寸鉄人を刺す箴言(私は、いつも箴言だと思って読んでいる)は、変わらなくある。

きらびやかではないが、心に沁み入る言葉たち。
平板な表現だが、「滋味溢れる」というのだろう。
そこに、明るさが加わった(ような気がする)。

南木さん、うつ病の症状から解放されているのだろう。
きっと。

「自然を相手に仕事をしていると、知らぬ間に己の身体のまぎれもない自然性に気づかされる。自然のことは自然にまかせるより仕方がない。頭で謀ったことなんぞたかが知れている。」

ふと思うのは、南木さんは「生老病死」と言わず、「老病死」としか使わない。
なぜなのだろう。
いまでは「生」だって病院のなかに押し込められているというのに。

4つの苦しみという意味で、「生」をとらえることはしない、という宣言なのか。
ただの深読みだろう。

「おばあさん、しっかりしてください。おばあさーん」とおおいかぶさって声をかけるヨメに「うるせー」と悪態をついて死んでいった90歳のおばあちゃんの話には、その豪快さに笑った。

まさに南木さんの指摘するように「死への意味づけなんてしょせんは生き残る者の身勝手な感傷でしかない」

とはいえ、その身勝手な感傷があればこそ、悲しみも哀しみも生まれてくるのだし。

4冊の本(『「聴く」ことの力』、『性技実践講座改訂増補』、『貧乏だけど幸せ』、『重い飛行機雲 太平洋戦争日本空軍秘話』)を同時に読む姿に、落ち着きのない読み方をするのは自分だけではないのだということを知り、どうにもうれしくなった。

<未来のない写真>は、ショート・ショートのネタになりそうなテーマ。
<春の祭りの日>で、南木さんがミニSLに乗るシーンが出てくる。そんなことするんだ。これまで偏屈王だと思っていたが。
してやられた!と思った。

もちろんエッセイも技巧の中にある。
歓び、喜び、悔しさ、楽しさ、阿鼻叫喚。
それをそのまま綴るのではなしに、推敲に推敲を重ねて、濾過されたものを我々に提示するもの。
いわば商品。

病院の飲み会に出ないことが多いのも南木さんであり、SLに乗るのも南木さん。
佐久総合病院の若月院長のつかみどころのない深さと広さが事実であるのと同様に、南木さんというイメージをエッセイから想像してしまうのは、勝手な思い込みというもの。

なぜなら、発症前は自然発生的に飲み会を開催していた模様。
発症後はオフィシャルな席に参加しなくなっただけなのだろう。
(でも、だからといって偏屈なひとではない、とは絶対に言えないと確信している)

<ステッパー幸吉号>
「肉親とは心身の距離が近すぎる。だから、互いの関係が密になり過ぎて、ゆとりの笑顔が造れなくなる。」

南木さんの母親代わりになった祖母の死に際してのことば。
直前には、「あの午後のなにげない沈黙すらもう共有できないのだと知り、激しく後悔した。」とある。

私には、むしろこちらのほうに心を感じる。
「なにげない沈黙」。
さりげない笑顔と、さりげない会話。
なんということのない日常にこそ、真理は宿っているということなのだろう。

真理なんて大げさなものじゃなくてもいい。
かけがえのない時間というのは、失ってから気づくもの。

(だからこそ、私は残り少ない母との時間を大切に過ごしたいと切に思う。)
(あなたは20年前からそんなことを言っているわ、と和子は言うがw)

<禁令の釣り>の最後。
「あのなあ、むかし、節度をわきまえねえバカ医者がいてなあ、と古老が応え、しばしその医者の愚かさを二人で笑い合う」
読みながら、微笑む。
南木さんは、もはや快癒したのではあるまいか。

<寒い朝の誤解>に出てくる夫婦喧嘩のネタ明かしには、笑えた。
「もう二十年以上おなじ屋根の下で暮らしている彼女との間でも、私の口にする言葉というものがこれほどまでに誤解されやすいはかなさを秘めた「壊れ物」であることに慄然とした」という部分には、激しく同意したw

誤解曲解など、わが家では日常茶飯事であることなど、南木さんは知るまいw

<健者の奢り>
もしかしたら、今回のエッセイで、この一文がいちばん好きかもしれない。
互いの手のぬくもりが感じられる文章だった。

<落葉と中華街>に出てくるご子息とのぎこちない笑顔は、あと数年後のわが家かと思うと、どんなになっているのだろうと想像するとおもしろい。

<大漁日>は、「健者の奢り」と同じか次くらいに好きなエッセイ。
(それにしても、タイトル付けが抜群な気がする)

「下を向いて、足元の一歩一歩を見てりゃあ自然に山につくだ。先ばっかり見てるから遠く思えるだ」

<山林はどこだ>に出てくる南木さんのおばあさんの言葉。
ともかくこのおばあさんの言葉は、よく登場する。
なるほどね、としか言いようのない言葉たち。

曰く、「米を買うようになっちゃあ人間、おしまいだ」というのには、ショックを受けたがw
たしかに、自分の食べる分だけでも自分で作るというのが、もともとの人間のありかただっただろう。
いまだって、そういう家族はたくさんいるに違いない。

それはさておき、「足元を見て歩く」というのは、ほんとうに含蓄のあることば。

今回の『急な青空』を読んで思うのは、会話体が多いこと、自省的な部分は南木さんの真骨頂だし、これを除いてしまったら、なんのこっちゃのエッセイになるわけだが、奥さんが頻繁に登場すること、外界の描写に「色」がついていることなどの変化が感じられる。

「人は生きのびるために変容するのか、変容するから生きのびるのか」という『生きのびる からだ』での問い掛けは、やはりエッセイにも出てきていると感じる。

エッセイそれじたいに明るさを感じるし、病気との折り合いもつけているのだろう。
やたらと「老い」というフレーズを多用するように感じられるのが、ちょっと気になるところだが、子どものころから老成している南木さんだけに、仕方の無いことかと、にわか南木ファンとしては納得するほかあるまい。

【ちなみに】
もし南木佳士がパニック障害にもうつ病にも罹患していなかったとしたら
http://amoki-san.blog.so-net.ne.jp/2011-05-30
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

読んだ『不幸になりたがる人たち』(春日武彦 著、文春新書) [本・雑誌]

本書をひとことで言ってしまうと、新聞ネタや小説の世界、現実の診察室に現れる著者の患者たち、世の中に生起するさまざまなことがらから、グロテスクきわまりない事象を紹介し、精神科医として分析し、わかりやすく解説してくれる本。

別な読み方としては、「人格障害」というものには、こんなにたくさんのバリエーションがあるものだということを教えてくれる本。

「はじめに」には、「わたしの書き綴った内容が上手く読者諸氏へ伝わるなら、おそらく本書はきわめて後味の悪い読後感をもたらすだろう。決して爽快な気分にはなるまい。」とある。

たしかに、気持ち悪いこと夥しい事例が満載w
さながら、世界衛生博覧会春日編集版というところか。

その「過激さ」「珍奇さ」「気持ち悪さ」「グロテスクさ」のなかに、どうしても人間の本性のようなものを感じ取ることができる。

われわれと同じ人間のどこかに流れる共通性のようなものを著者である春日先生は、感じ取るのだろう。

どこが違う?と言われると、明らかに違う、私たちは違うとしか言いようがないのだが、グラデーションのように、その違い、境界は不確かにも感じられる。
しかし、決定的に、彼らと私たちは違う。

逆恨みをして知人宅で焼身自殺をしてしまう男性、犬4匹と一緒に中央線で人身事故で亡くなる男性、やたらと化粧が上手だが内面に深い闇を抱える女性(早い話が精神疾患)、身体改造世界大会(というのがあるらしい)、家族の遺体を床下に埋めたり、家の中に放置したままにしてしまうひと、熊に食われて死んでしまう女性、あまりにいい加減な誘拐犯(女性2名)の相互の人間関係などなど。

「ふつうの感覚」からすれば、それらは悲惨な仕儀なのだろうし、眼をそむけたくなる光景。
しかし、どう考えてもふつうの生活者とは完全にピントがずれているし、見方によっては(不謹慎なのだろうが)滑稽極まりない行為ばかり。

「書き方」「構成の仕方」によっては、おもしろい本にすることも可能だろう。

本書を読んでいて思うこと。
人は不幸になりたいのか。
あるいは、不幸になりたい人というのは、ほんとうに存在するものなのか。
少なくとも本書に登場するひとたちは、それを望んでいるように思えなくもない。
その「不幸」の現状維持こそが、彼らの幸福なのだろう。

ただやはり、彼らは「異常」なのだと思うし、どう考えても「ふつう」じゃない。
とはいうものの、「どんな状況であっても、現状を肯定することが幸せの第一歩なのだ」というテーゼをあてはめてみると、見事に彼らは幸福だということになる。

問題は、その「現状」。
アルコール依存症の夫を持つ妻にせよ、DVの夫を持つ妻にせよ、その現状肯定というのはやはり「病的」と言わざるをえまい。
なぜなら、その「悩み」「葛藤」を抱いて精神科の診察室を訪れるのだから。

やはり精神疾患、とりわけ人格障害系の人間というものは、専門家に任せるべきだろう。
私たちは、これらケースをケラケラ笑いながら読みつつ(←それはそれで努力の要ることなのだが)、その背後にある人間の心の深い闇に思いを馳せるほかないのだろう。


コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。