読んだ『眼の探索』(辺見庸 著、朝日新聞社) [本・雑誌]

南木さんのエッセイに書かれていた本なので読んでみた。
他によく登場するのは中島義道と大森荘蔵なのだが、なんとなくむずかしそうなのでパスしているw

義兄は彼らの本まで読むそうだが、彼ほどの読書家ではない私にはそこまではカバーできない。

さて、本書。
<骨の鳴く音>
永山則夫の死刑執行に関する一文から始まる。
「応報主義の声に応えて、一挙四人を処刑したことの底意に、人を脅して世を統べようという、法治に見せかけた暴戻の気色はないか。人というものの、無限の可変性を否定する野蛮な知性が、この国にいま蔓延してはいないか。」

「人を脅して世を統べようという、法治に見せかけた暴戻の気色」という表現。

たしかに、「人を脅して世を統べ」ることは、人を犬のように扱うことにほかならず、さりとて死刑という究極の刑罰が現に行われる「兇悪な」犯罪の抑止力になるともとうてい思えず、立証もされないという事実からは、「法治に見せかけた暴戻の気色」という批判も、もっともなこと。

(それにしても、「暴戻」なることば、本書を読んで初めて接した。別に、この言葉に限らない。本書には、あたりまえのように(私にとっては)むずかしい日本語が次から次へと繰り出される。それでもなお、読み進められるのは、(ともかく読んでしまおうという雑駁かついい加減な私の性格と)文体のリズムと日本語の表現力、豊穣さというものを感じるからだろう。)

「無限の可変性」
このことは、『死刑囚の記録』http://amoki-san.blog.so-net.ne.jp/2010-03-22-1にも記述されていたこと。
ただしかし思うのは、なぜその罪を犯すまえに変われなかったのか。
死刑という峻厳な刑罰の宣告を受けたあと、無限の可変性を現実化させたとしても、そのことが過去の事実を消し去りはできまい。

たとえ幼少期の苛烈な生活体験があったとしても、同時代に生きる仲間である他人の命を虫けらのように射殺してしまうという行為。当然の結果なのか。

「幼少期の体験」ですべてを語り尽くすことができるのか。

同じ体験をしつつも、ふつうはふつうに暮らすのではないのか。少なくとも、当然のように4人も射殺はしまい。

「人を思いやる心」それじたいが欠落していた、それを共感できる人生を歩めなかった不幸。

その不幸によって生じた「無知」が犯罪を起こさせたものだとしても、「人を殺してはならない」という、ごくごく自然な生き物としての感覚(仲間を殺さない)までもが欠落していたというのだろうか。

もしそうであるのなら、むしろ精神状態それじたいを問題とすべきだろうし、果たして永山則夫は、どうだったのか。
池田小事件を起こした犯人であれば、もはや矯正可能性もへったくれもないわけで、はたしてこのような人間にまで、辺見さんは死刑の執行を問題視するのだろうか。

<言葉の徒雲>
パウダーピンクの女性が、エッセイのなかで生き生きと動く。
一編の小説のプロット。

<悪意の哲学>
地雷原を歩くと皆、泥鰌すくいを踊るかのように歩くという。
79年の中越戦争の当時、中国軍はベトナム側が敷設した地雷原突破に、馬を疾走させたという話。

即座に思い出したのは、鳥越さんの『人間力の磨き方』http://amoki-san.blog.so-net.ne.jp/2010-02-15-1に出ていた裸足の子どもが地雷原を走り抜ける話。
もっと怖い。

<言葉と生成>
日米新ガイドラインが当時から話題になっていたのだろう。
本書には、「周辺事態」に関するコメントがよく出てくる。
日本語としての抑揚のなさとして、語法の破綻の例として。
「発酵と醸成」を経て、日本語として意味をなさない言葉が実体をともなってくる。

<風景と身体>
タマオシコガネの描写がある。
「何度も何度も何度もそれを繰り返している。虫の親も祖父も曾祖父もそうしてきた。千年も万年も。」

エチオピアの山の中での出来事。
悠久の自然を当然のように感じる辺見さんの文章。
「たしかなのは、つづら折りを右に左にめぐりさまよい、幾度も登ったり下ったりしているうちに、ぽろぽろと何かがこの身から落ちていく感覚だけだ。」

そういうものか。

もっとすごい描写。
「気がつけば、おびただしい星屑のなかに、私は仰向いてぽっかりと浮かんでいるのだった。眼のすぐ先をいくつも流星がかすめていく。億万劫の時の運河のただなかを、無量の星々に交ざり、わらしべみたに私は流されていく。過去でもない、未来でもない、ただ眩いだけ、虚しいだけの空劫の時を漂っている。夢か、あるいは、もう死んでしまったのかと思った。」

何年か前のお盆の夜、子どもたちと流れ星を見にスキー場にでかけた。
天の川がくっきりと流れていた。
星座がはっきりと見えた。
「あれがヴェガ、それがアルタイル」と覚えたての星座名を清志郎が教えてくれた。

いくつもの流れ星が、長い尾を引いて飛ぶのをみたが、「眼のすぐ先」をかすめるほどには飛ばなかった。
そういう光景にあこがれる。

「始原の圧倒的事実に感動しているのは、この体である。体内の劫初の記憶がしきりに明滅するのだ。星屑をかきわけかきわけ歩みつつ、天啓に打たれるように得心したことだ。」

アラスカの氷河の上に飛ぶ流星を見た星野さんも、同様の感覚を得たのだろうか。

もっとも、「身体が精神である。精神と肉体は、同一の現実に付けられた二つの名前にほかならない」(市川浩『精神としての身体』)という引用は、私にはむずかしい。

<革ジャンパー>
95年3月20日のサリン事件に関する一文。
被害者のひとりとなった外国人を助け出したときに、着ていた革ジャンに彼の涎がついたという話。

「マスメディアは凶悪事件を賦活剤とする化け物のように勢いづいた」という一文は、哀しい。

思えば、同じ年の1月17日。
阪神・淡路大震災が起きたのだった。6433人もの方が亡くなった。
その心の傷も癒える間もなく、サリン事件は起き、マスコミはそちらに関心を向けた。
そしていま、年間3万人を超える自殺者。
五木に言わせれば、年に5回以上もの大震災が起きていることになる。

それにしても思うのは。
辺見さんというひとの語彙力の豊富さと私自身の日本語の知らなさ。
最後の最後まで、分からない言葉の連続だった。

<あとがき>に出てくる「なんとか風景の見えない肯綮に中ろうとしてみた」という表現。
三省堂の辞書ことわざサイトによれば、どうやら「急所をつく。ポイントにあたる」という意味なのだとか。
そもそも、ふりがながないと読めない(もちろん、本書にはふりがながついている)。

http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2008/03/31/【今週のことわざ】肯綮に中る/
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