読んだ『出家とその弟子』(倉田百三 著、ワイド版岩波文庫) [本・雑誌]

もはや古典に類する書籍だし、著者名とタイトルは記憶の隅にはあった。
五木の『大河の一滴』に、この本のことが書かれていたのを思い出し、初めて読んだ。
『大河の一滴』には、「当時の青年たちのあいだに大変なセンセーションを巻き起こし、大ベストセラーになりました」とある。

岩波文庫版が98年当時で88刷、新潮文庫版でも平成8年で79刷というから、時代を超えたベストセラーということになる。

浄土真宗の開祖親鸞と歎異抄を書いたといわれる弟子の唯円の戯曲。
ドラマチックなんぞというものではない展開とディテール。
唯円の青春小説・恋愛小説であり、父と子(親鸞と息子善鸞)の葛藤、組織の論理などがふんだんに盛られたダイナミックさに、驚く。

これを僅か26歳で書き上げた倉田百三という人の天分に、天の配剤の妙を感じる。

興味深いのは、浄土真宗の教えとキリスト教の教義の両方が色濃く出てくること。
これが出版されたのが1917(大正6)年。
ヨーロッパでは第一次大戦。ロシア革命。
その後、日本は対華21箇条要求。シベリア出兵。
不穏な時代に入り込む直前の、まだまだ大正デモクラシーの時代。

恋愛小説の部分は設定それじたいが遊女と若い僧侶という「いかにも」の設定なのだが、それだけに恋愛の神髄が描かれる。
そこに宗教的な意味付けがなされていく。

そもそも恋愛感情なんてものは一種の熱狂(狂気)だろうし、「大いなる麗しき美しき幻想」なくして結婚は成り立ち得ないw、などという冗談(現実)はともかく、唯円とかえでのやりとりは、まさにロミオとジュリエット。

恋愛と信仰に関する親鸞と唯円の会話は、まさに人間親鸞を感じさせる。
フィクションだとは分かっていても、つい引き込まれてしまう筆力には感動する。

かえでへの想いと苦悩と歓喜を正直に告白する唯円の姿は、いつの時代も変わらないものだろう。
むしろ、当時の若者のほうが純粋だったのかもしれず。

親鸞の宗教的観点から恋愛を語るシーンには、非常なる説得力がある。

クライマックスは、大教団に育った浄土真宗の始祖である親鸞と勘当された息子善鸞との和解が期待されるシーン。

たしかに、善鸞のしでかしたことは、宗教を持ち出すまでもなく、常識的にみてもありえないこと。その意味で、勘当という仕儀に至ることは当然なのだろうし、ましてや大教団の教祖として赦すことは組織論としてもありえないこと。

葛藤なくしてドラマはありえない。

偉大な宗教家としての親鸞もひとりの人間であり父親であり、宗教家として念仏を信じるかと、臨終の際に息子に問い掛ける。

しかし、あまりに誠実な息子は、嘘はつけない。
失意のままに親鸞は絶命する。

たしかに、善鸞が心にもなく「信じます」と言ってしまっては、ドラマとしての精彩を欠くし、ただのお涙頂戴の新派になってしまう。

それにしても、久しぶりに感動というものを味わった。

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