読んだ『裁判所が道徳を破壊する』(井上薫 著、文春新書) [本・雑誌]

著者の井上薫氏は、元裁判官。
あまりに短すぎる判決を書くということで物議を醸し、新聞ネタにもなった。『狂った裁判官』(幻冬舎)は興味深かった。
そこにはさまざまな裁判官のタイプが紹介されていた。

とりわけ「蛇足判決」論(判決の理由中に主文を導く必要不可欠な事実以外は書くべきではなく、書けば違法な判決になる)の「ユニークさ」は、あたりまえのようでいて主張しにくいことを分かりやすく論述してくれていて、おもしろさという点では評価できた。

この考え方からすれば、このまえの公務員の政治活動に関する高裁判決の歴史の流れや欧米での取り扱いに関する下りは、「蛇足」の最たるものと切って捨てられる運命にあるのだろう。

さて、今回の本。
3つの柱で構成されている。

まず、破産免責者20万人を「安易」に許す裁判制度が、日本人の道徳を破壊するものだと指摘し、

次に尊属殺人罪違憲判決が日本人の道徳を破壊するものだと断定し、

トドメは東京都の卒業式における国旗掲揚君が代斉唱に反対する教員の訴訟事件の一審判決が道徳を破壊するものだと論断する。

形式論理の見事な整合性は、さすが東大の理学系の大学院を出て、難関の司法試験に合格し、裁判官に任官した明晰な頭脳のあらわれだろう。

しかし、違和感が残る本。

たしかに、法曹、とりわけ裁判官は法律に事実をあてはめ法律効果の存否を判断する存在。
拘束されるのは、憲法と法律と裁判官としての良心。

「直感が裁判を導く」と断じたのはホームズだったか。
忘れた。

プロの裁判官たるもの、認定された事実については、職業的な直感というものによって「落としどころ」というものを直感するものではないのか。

あるいは、当事者のどちらかを勝たせる社会的、制度的必要性を直感し、法律それじたいはその直感が許される判断かを整合させる、つまりは、「床屋談議ではないよ」ということを示すもの)なのではなかったか。

その意味で解釈論というのは、その整合性を、法制度のもとでの許容性を納得させるための「技術」だったのではなかったか。

心太のように、法律を事実に当てはめて出てくるような判断が求められる事件など、本来、訴訟になるとも思えない。

典型的に現れる違和感は、国旗国歌訴訟の一審判決を批判する部分。
判決文にあらわれる「卒業式の厳粛さ」という言葉をキーワードに、判決の立場をこきおろす。
「公序良俗」にあたるような、なんでもありのどうとでもとれる「厳粛さ」という言葉を駆使する。
法律的な判断ではなく、人によって感じ方の違う言葉をことさらに強調し、こきおろす。

おそらくフェアではあるまい。

尊属殺人罪違憲判決は、裁判所に委ねられた権限を越えた憲法裁判所的判断だと断ずる。
要するに、適用違憲をすべきだという。

理由はさておき、最高裁ですら尊属殺人罪の違憲性を指摘せざるをえなかった。

著者は、違憲判決が指摘した「親への尊重報恩は社会生活上の基本的道義であり、このような自然的情愛や普遍的倫理の維持は、刑法上の保護に値する。親殺しはこのような親族の結合の破壊であって、それ自体人倫の大本に反し、このような行為をあえてした者の背倫理性は強く非難(以下省略)」されるべきだという部分を当然の前提として肯定しているようだ。

子を放置し虐待し、死に至らしめる現代の社会には目を向けず、親を殺害する本件のような希有な事例をあえて取り上げ、その「道徳」を強調する著者。

著者の道徳観というものは、本書に直接記載されているわけではない。
「いまある常識的なもの」的な、多数派の意思を代弁するような考え方がすけてみえる。

否、おそらく著者には、そのような「道徳」に関する思考などには何の興味もないのではないか。

はたして裁判の機能は、単なる機械的な心太判決ばかりなのか。
国会内閣は多数派が支配し、その「多数派」の正当性とて選挙制度のゆがみが結果するものであって、真の正当性たりうるかはまずおくとしても、そこから漏れた少数派のやむにやまれぬ利益を確保するのが、裁判所の使命なのではなかったか。

あるいは、多数派が形成する政策決定による矛盾それじたいを救うのが、裁判所の役割ではなかったか。

よもやアメリカで違憲審査制度が発達したのが、宗主国イギリスの不当な課税をさせないという植民地国家のやむにやまれぬ抵抗だったことを著者は知らぬはずはあるまい。

多数派支配からおちこぼれた、もともと政策決定では顧慮されない少数派の利益を確保する、その意味で、あらたな政策形成機能というものを裁判所は違憲審査制度によって実現すべき立場にあるのではないか。

地裁レベルであれ、簡裁であれ、係争事件を解決するにあたり適用されるべき法令じたいが憲法に違反すると判断したならば、ためらわず行動することが、場合によっては義務づけられているのが裁判官というものの「業」だろうに。

もとより、裁判所がするのは法解釈なのであり、積極的な政策形成の権限があたえられているわけではなく、そのような訓練などされてはいない。
さらに著者は、そのようなことにはまったく関心はないだろう。
あくまでも、あるがままの法令とその社会状況を追認するだけの法律解釈。

しかし、訴えという手続きを通じて制度に圧殺され、救われないひとたちの想いや心を取り上げて、法律的な解決を与えるというのが、裁判官に期待されていると思うが、違うか。

柳田さんの言葉を借りれば、著者は徹底した3人称の専門家だと思われる。
そして、意図してか知らずか、結果的にいわゆる保守イデオローグになっている。

精緻な形式論理からは何ものも生まれない。
論理で法律問題を解決するのは、おそらく法律家に期待されていることではあるまい。そんなことは職業的専門家としてあたりまえのことなのであり、専門家にはそれ以上のことが求められている。

本書末尾にある三権分立の議論は、あまりに形式論理。
別に間違ったことが書かれているわけではない。
必要条件だけは十分に書かれている。
中学校の教科書としてはそれでよいだろう。

そもそも、多数者に法律など必要なのか。
もちろん強欲資本主義の末路が一昨年のリーマンショックだとしても、資本の論理なるものは、するりと法律の網をくぐりぬけるものだろう。
それが本質だろう。

いや法律など、弱者のためなどと考えることそれじたいが「青い」議論だろう。
「何か歯止めがあるかのように印象づけること」が制度というものだろう。
それが分かっていながら、あのような形式論理をふりかざす。
怖いひとだとつくづく思う。

たとえば戦後補償問題。原爆訴訟。公害訴訟。
法の網からこぼれた事象をギリギリの部分で裁判所が「救う」。
多数派支配の政策決定では助けられないひとたちのことを著者はどう考えているのか。

おそらく興味はないだろう。

万が一、私が法律紛争に巻き込まれても、この著者には絶対に依頼しないだろう。

ただしかし、君が代訴訟のやり方というのは運動論を訴訟の場に持ち込むという点であまりにあざといやり方、キャンペーンの場として裁判所を利用したという点で、ちょっとだけ疑問は残る。

とはいうものの、やむにやまれぬ教員たちの心の叫びとして訴訟という場を通じて何らかのアピールを世間に示したいという気持ち、想いは痛いほど感じる。
いずれにしても、この事件は最終的には教員側の敗訴で終わっている。
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