読んだ『私たちはなぜ狂わずにいるのか』(春日武彦 著、新潮OH!文庫) [本・雑誌]

統合失調症(文庫化当時は「精神分裂病」)における「狂気」を中心としつつ、患者、精神科医、治療という観点から「狂気」を解き明かそうとする。

<狂気という「物語」について>に出てくるパターンが興味深い。
【電波を主題とするもの】電波で操る、脳へ命令を送り込む、思考を抜き取る等々。
【脳波を読まれたり、洗脳をされたりする】
【受信器を埋め込まれる】
【盗聴器を仕掛けられている】
【何者かが自分を見張っている、尾行している】
【何者かが部屋に忍び込んで来る】
【自分に関する悪い噂がいつの間にか広がっている】
【何者かの「声」が自分に命令を発してくる】

一般人にも、分かりやすいパターン。
一般的な生活の延長線上にあるような、テレビや映画に出て来るような極めてありきたりなパターン。
それを現実のものとして認識してしまうのが、「狂気」。

問題は、その「狂気」それだけにあるのではなくて、本人の社会生活あるいは周囲に甚大な影響を及ぼすからだろう。
入院治療レベルなのだろうが、そういうひとが患者として精神科病棟にはたくさんいるということか。

春日先生は指摘する。
「狂気は我々からの隔たりゆえに関心を引きつけるのではない、むしろ誇張・生々しさ・露骨さ・独善性・キッチュといった形で我々の心に通体したものを感知させるからこそ、目をそらし難い存在なのである。
とはいうものの、患者の心の内部はやはり我々の心とは大きく隔たっているのだろう。しかも、どのように、どれだけ隔たっているのかすら判然としない。」

連続しているようでいて、断絶している。
しかし、不思議なのは、かつて「正常」な思考と行動をしていながら、「発症」によってそのような「狂気」に陥り、治療を受けることによって、また元に戻るケース。

そんなケースは、たくさんあるのだろう。
じっさい自分のうつ病だって、まさに「狂気」に陥り、そこから「生還」したのだから。

「医者としては、発狂の反対語としてどんなものを考えているか。「回復」という言葉がもっとも穏当な表現として好まれているような気がする。この語には、急激とか一気ににといった性急な感情が薄い。ゆっくりと・じっくりと、しかも本来誰もに備わっている筈の治癒力をたのみにじりじりと調子を取り戻していくような、そういった自然な響きがある。」

「急性期の激しい幻覚妄想や興奮状態を薬物によってねじ伏せて乗り切ることはあっても、また安定後も添え木のようにして薬物療法を継続するにせよ、むしろ患者が「もう治った」と焦って社会へ復帰しようとするのを「もう少し待て」と引き止め、サイドの失敗で自身を失わないように手助けをしていくところに精神科特有の応援態勢がある。」

おそらく上記の記述は、統合失調症に限らず一般的な精神疾患、とりわけうつ病についても妥当する考え方だろう。

「本来誰もに備わっている筈の治癒力」

免疫力の源泉にある自己同一性。
「自己」からなぜか出て来てしまった精神疾患も、精神の自己としての同一性、統一性を回復させようとする「治癒力」によって回復していく。
「生きる」ことの源泉イコール、おそらく「治癒力」。

この治癒力の強さ弱さが、やはり薬物治療の効果の場面でも、効果を左右するのかもしれない。

それにしても、うつ病。
どうして、心の中であのような状態を創り出してしまうのか。
堂々巡りの思考、過去への回帰、自責、無価値感等々。
しかも不思議なのは、アモキサンなる薬剤を1日に60ミリほど服用するだけで、これほど劇的かつ効果的に「回復」するという事実には、感動する。

<狂気を治療する>に記述されている精神医学の歴史は、爆笑モノ。
端で笑っているのはよいが、当時の患者は大変な苦労をした。そして、生真面目に論文を書いて実験と治療を繰り返していた医師たちの姿は、むしろ「狂気」といえなくもない。

春日先生によれば、治療の歴史(的事実)は2つの方向に分類できるとのこと。
「ひとつには、まさに身体的および精神的な刺激を与えて、その衝撃で「正気に戻そう」」といった発想のもの。

水を浴びせる、水中に突き落とす。
池にかかった橋を渡らせ、仕掛けによって池に転落させる。
旋回機なるもの。患者を椅子や寝台へ縛り付けて、機械仕掛けでぶんぶんと振り回す。
洞車なるもの。早い話、ハツカネズミが遊ぶ回転する輪の人間版。

びっくりさせれば「正気に戻る」と考えたらしいが。
涙ぐましいというか、素朴というか。
しかつめらしく「理論づけ」をしつつ、実験(治療)をして、それが効果を生じたかを確かめる姿は、やはり滑稽でありグロテスク。

「いまひとつは、身体から「狂気の素」を輩出させ、心身の浄化を計ることで「正気に戻そう」といった発想のものである。」

嘔吐剤、下剤の使用。狂気と腹部神経に相関があるといった考えも関連していたらしい。心身の衰弱によって興奮の鎮静を期待したらしい。

うつ病も、ひとによっては、というかふつうは不眠と早朝覚醒も症状のひとつらしいので、沈静化の薬剤の使用がふつうだろう。
幸い私には、そのような症状はなかったし、現在もない。

安保先生の本だったかに、交感神経は午前4時頃から徐々に働き始めるとあった。
早朝覚醒の「早朝」というのが、午前3時や4時であるとすれば、交感神経の興奮が、「徐々に」ではなく「一気に」活性化してしまうということなのか。

さらに、「心身の浄化をはかる」系の「治療法」としては、持続睡眠療法、インシュリン・ショック療法(かなり危険だった模様。そりゃそうだろう低血糖状態におけば死の危険はすぐそこにあるのだから)などがあったらしい。

最後に出てくるロボトミー手術。
ここまでくると、ほぼマッドサイエンティスト。
ちなみに、ロボトミーのつづりは、lobotomy。
前頭葉、側頭葉の「葉」を意味するlobeに、解剖anatomyのtomyをくっつけた造語とのこと。
ロボットみたいな無感動な人間になってしまうことが多いから、そういうRobotomyだとばかり思っていた。

考えてみれば、「ロボットみたいな無感動な人間」にするために手術するはずはなかろう。
「マトモ」で、まっとうな、もともとの活力ある人間像こそが「治療」の目的だったはずだから。

<狂気を治療する>に出てくる「インフォームド・コンセント」。
ここの章は、非常に迫力がある筆致。

「狂気に陥った者の意思表示は全面的に認めるべきなのか、たとえ本人が理解不可能な状態においても「正常な」人間に対するのと同じ手続をすべきなのか。形骸化した手続きであろうと、それを行うことにこそ意義があるのか?(中略)それを考えるうえでは、狂気を「脳の故障」といった概念で把握していくか、それとも「非常に極端かつ不器用な形をとった自己表現』ないしは『症状には隠蔽されたメッセージがある』」ととらえていくかで、大きな違いがでてくることであろう。」という。

そもそも手続きの目的は、あくまでも患者のよりよい治療成果を得るためなのであって、インフォームド・コンセントはその手段にすぎない。

医的侵襲というものを患者自身の判断のもとに行わせる、あくまでも患者本人の意思のもとで行わせる、あるいは、「狂気」に類似した実験的な医療から患者を守るためには、インフォームド・コンセントは不可欠な手続きだとはいえる。

しかし、正常な判断能力を欠いたと一般的に考えられる状態であるかぎり、「正常な」人間と同様の手続きをする必要はあるまい。

強い自殺念虜のあるうつ病患者には、電撃療法が極めて効果的だとの記述があった。
春日先生も、もし自分がそのような状態に陥ったときには、電撃療法を受けたいという。
万が一、私も、このうつ病が再燃ないし再発し、さらに重篤な精神状態に陥ったとしたら、進んで電撃療法なるものを受けてみたい。

電撃療法の際、最近では全身麻酔をするらしいが、その副作用(合併症)について、春日先生は指摘する。
たしかに、麻酔薬が脳にでも回ってしまった日には、取り返しのつかない事態が起こることも予想される。
もっとも、果たしてそのとき、自分に、きちんとそのリスクについて質問をし、納得するだけの精神的な余裕が自分に残っているのかは、大きな疑問だが。

簡単なこと。
家族にその治療方法についての依頼をしておけばよい。
あるいは、書面できちんと依頼をしておく、とか。

<狂気を治療する>の「なぜ狂気にクスリが効くのか」の「病因」と「病原」の対比に関する下記の文章が興味深い。

「病因」とは、心理的要因(さまざまなストレスとか失恋とか性格傾向とか)や社会的要因、さらには遺伝による脳機機能の脆弱性などが挙げられる。しばしば病気の「原因」として取り沙汰されがちな要素であり、「きっかけ」と環境と素質とを併せた概念である。ただし、それだけでは狂気に陥らない。「病原」が必要であり、これは脳の機能異常であり、それがそのまま精神症状として発現することになる。「病原」とは、実際のところ脳内の生化学的異常とほぼ道義であると考えて良い。」

なるほどね。

アモキサンで脳内の生化学的異常が抑えられ、元通りの活動に戻り「回復」したとしても、心理的要因がないがしろにされているかぎり、やはり元の木阿弥ということになるのだろう。

春日先生の言葉によれば、「「病因」—環境や素質や心理的要因や個人的な経緯などをトータルしたもの、つまりその人の、人となりを綴った物語—をないがしろにしては、本当の治癒を望むことは叶わない。」

「人となりを綴った物語」
新たな生き方。新しい自分の獲得と言い換えることもできるのだろう。

担当のドクターとの会話の中で、「少なくとも今の考え方と生き方を実践しているかぎり、再発のリスクは極めて小さいと言えますね」ということを言われたことを思い出す。
ありがたいこと。

<狂気を選びとることができるのか>に出てくる「拘禁反応」や「拘禁精神病」に陥るしくみについての指摘が興味深い。
「辛い境遇を生き抜くための精神変容の3パターンとして、①徹底的に想像力の世界へのめりこむ、②精神を冬眠に近いフラットな状態にしてしまう、③混乱や混沌の状態に精神を泡立てる」

①が冤罪妄想だったり、幻聴や幻覚、②がいわゆる刑務所化(プリゾニゼーション)だろうし、③が自らの身体を傷つけたりするのだろう。

なお、本書末尾に掲載してある引用文献、参照文献には圧倒される。
やはり春日先生というひとは、単なる雑学家、キッチュなものの収集家wばかりではなくて、大変な勉強家だった。
改めて、本を通じた出会いの素晴らしさを痛感した。
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