読んだ『幸福論』(春日武彦 著、講談社現代新書) [本・雑誌]

別段、春日武彦フリークになったわけではないのだがw、彼の「あ〜でもあるし、こ〜でもある」的な「可能性思考」が面白くて、また彼の著作を読んでしまった。

それともうひとつは、このまえの『不幸になりたがる人たち』を読んでいて、「不幸」というもののわれわれの日常とのほんのささいな連続性と不連続性を指摘する著者の「不幸論」に対立すべき、「幸福論」というものを知りたかった。

また、「私は幸福を感じたことがない」的なことを非常に限定的に「幸福」を定義したうえで書いていたことから、なぜ限定するのか、限定をとったときにどういう感じ方を著者はするのかを知りたかった。

やはり彼は幸福論を書いていた。
とはいうものの、本書を読んで、結局のところ「幸福論を書きながら不幸論を書いてしまう」精神科医の性というものを深く感じ入った次第w

『17歳という病』http://amoki-san.blog.so-net.ne.jp/2010-04-07-1のときと同様に、著者にとっての幸福「感」(観)というものはどういうものかをきちんと披瀝してから論を進めるところが、好ましい。

なんと1ダースもの著者の幸福な体験から始まる。
いちばん印象に残るのは「②猫の遍在」という一文。
梅崎春生の「猫の話」という小説の話なのだが、読書家の一面を相変わらず見せてくれる。
(それにしても、著者の読書量というのは半端ではないし、「手元にないので」と言いながらよく内容を紹介する文章にぶちあたるのだが、その詳細な記憶力というにも驚かされる。)

私はこの一文から、「死」が「生」に転化することを感じた次第。
著者は「救済」をこの小説から感じたというが、たしかにそのとおりだろう。
私は「命」というものの連続性というものを感じた。

<不幸の中の幸福>の章に出てくる「ミュンヒハウゼン症候群」なる精神疾患に関する記述。
一種の病人マニアで、何度も入院くらいならばまだいいが、これが手術マニア、開腹手術マニアあたりになると、怖い。
早い話が急病人を装って(実際に毒を服用したり身体を深く傷つけることも珍しくない)急患として入院し、手厚い治療を施されることに喜びを感じるというものである。」という精神疾患らしい。

たしかに、子どもの頃、熱を出して、母に優しくしてもらうと幸福感にひたれた。
その代償行動なのだろうか。

グロテスク極まりないが、そういうのが好きな人間というのがいるというのだから、世の中、広い。
著者は、「呪われた人生」とする。

(しかし、これのどこが「幸福論」の記述なのかw)

強迫神経症のH氏の治療の現場での話。
「精神科医療の現場では、必ずしも「治す」ばかりが能ではない。適当に病気であることを認めてあげつつ社会へ適応していけるようにリードするところに勘どころがあったりするのである。」

たしかに、強迫神経症あたりになると、それが「生き甲斐」になっているやもしれず。その部分を取り去ると、「生きる証」がなくなってしまい生活をするうえでのエネルギーが枯渇するのかもしれない。
その意味で、「それはそれとして認めつつ社会に適応させる」という方向は、おそらく正しいのだろう。

結局は、精神疾患が精神疾患たるゆえんは、社会との折り合いができないことに尽きるのだから、その折り合いさえつけることができれば、少々の神経症の残存など取るに足らないエピソードなのかもしれない。
(まわりがどう感じるかは別として)

結局出て来てしまう「不幸論」w
<幸福と不幸との間>の章に、不幸の条件が書かれている。
「わたしにとっては不幸とは、①ひとつのエピソードに収斂してしまうものではなく、もっと持続的で曖昧なもの、②その正体を言葉で容易に言い表すことは困難、この二つの条件が必要な気がするのである。」

②は、「条件」たりえない。
①の「持続的で曖昧」というのは、なんとなくわかる。
結局、下世話にいえば、「気分」ということかw
少なくとも、単なる事実ではないのだ、ということ。

別な表現。
「不幸の要素が退屈と不全感からなる」ということ。
精神疾患の方から眺めれば「ヘヴィーな精神疾患はとりあえず除外して、せいぜい神経症とか軽い人格障害レベルの人に話を限れば、表面的な訴え(不安や焦燥や不眠や抑鬱気分や過呼吸や動悸や過剰なこだわりなど)の下にあるのはどうにもならない不全感と、退屈という砂漠の真ん中に立たされた困惑であることが常なのである。」という。

そして、「「なるほど、あなたは不幸ですね」と言われたがっているニュアンスがある。不幸であると断定されることによって絶望を感じるのではなく、逆に自分の立場が明確になり、充実感を得られて安らぐところがあるらしい。」ということになる。

めんどくせ〜w
まさに一般的な「不幸」は、そのひとにとっては「幸福」という逆説的な話に収斂してしまう不思議さ。

あはは、と笑える一文。
「「わたしは幸せです」と自ら発言する人とはどんな人物なのか想像してみよ、といった設問を与えられたとしよう。(略)たぶん、結婚式を挙げている最中の男女か、さもなければ新興宗教にのめり込んでいる人物、と答えるだろう。」

その理由は、「どちらも幸福という枠組みが予め決められ、理性が麻痺し、さらに羞恥心が消し飛んでしまう状況にある。」からw

たしかに、自分の結婚式の披露宴のビデオは、もう二度と見たくはないw

「猫を投げる」という見出しの一文は、「余談である」といいつつも、まさに春日版「幸福の断片」。いい話。

「変化に喜びや充実感を覚える心性ももちろんあるが、それはあくまでも精神的なタフさを前提としているのであって、もしかすると変化や変革に価値を置く発想は健康で丈夫な人間ゆえの鈍感さや残酷さに通じてさえいるのかもしれないのである。」

南木さんのエッセイにあった若い医師の言葉「なんでもうつ病でかたづけば苦労はないですけどね」。
その残酷な物言い。鈍感さ。

しかし、仕方のないことだろうと思う。
骨折や風邪ひきであれば、誰しも経験することであり、きれいさっぱりと治る。
ところが、この精神疾患たるもの、うつ病しかわからないが、なった人でなければこの苦しさも怖さも理解できないし、想像することすらできまい。
(おそらく、そのことが「孤独感」につながるのだろう)

まして、同じ医師であっても専門を異にすれば診る患者も違う。
分からないのは当然といえば当然。

たぶん「想像力」や「共感」というレベルでもないことだろう。
想像を絶する精神状態になるのが、精神疾患というものなのだから。

ここで出てくるのは、おそらく五木のいう「悲」の心なのかもしれない。
励ますのでもなく力づけるのでもない。
ただ寄り添い、手を重ねる。
むずかしいことだとは思うが、きっとそれがうつ病にかかった人への対応のひとつだろう。
きっと。


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