読んだ『蓮如』(五木寛之 著、岩波新書) [本・雑誌]

この前読んだ蓮如をテーマにした戯曲『蓮如ーわが深き淵よりー』http://amoki-san.blog.so-net.ne.jp/2010-03-20-2には、部屋住みの時代から寺を継ぎ、大教団を築く直前の激動の時代の蓮如像が描かれていた。

この『蓮如』には、戯曲のディテールに加え、より広い時代の蓮如が紹介されている。
五木は、蓮如に限りない人間的な魅力を感じている。

ひと言で言えば、「生々しさ」であり、「人間性」であり、その圧倒的な民衆の支持を得た「存在感」というところか。

当時の宗教界からは見捨てられていた農業、漁業、職人、商人、交通運輸に携わる人たち(早い話が「海賊」たち)への活動は、彼らにとっての生きるよすがを提示した点で、当時では画期的なものだったに違いない。

いわば、イエスがマグダラのマリアという娼婦をも救済の対象としたのと同様に、親鸞から続く慈悲の精神をより理解しやすい形で民衆に提示していった。

もちろんそれだけではない「政治性」を蓮如は持っていた。
地方の「大坊主」と呼ばれる政治と宗教を牛耳る地位にある者に食い込むことによって、教団をさらに拡大させていったわけで。

それを50代にやってのけたというのだから、そのエネルギーのほとばしりは、年齢にかかわらないものだ、ということを感じ入る。

結局、蓮如は85歳で亡くなるわけで、当時の寿命からすれば画期的なんぞという言葉では表現できないほどの生命力を持っていたのだろう。

もっとも、親鸞は90歳を超えて亡くなっているのだから、歴史に名を残すレベルの人間の生命力というのは、計り知れない。

五木が着目するのは、蓮如の出自と母との別れ。
6歳で母と別れ、その母への思慕というもの、女性への憧憬というものが蓮如の精神性、宗教活動に影響を与えていたとみる。

当時の宗教界では不浄とされていた女性を取り込む活動は、宗教圏の拡大に画期的な効果を生んだことだろう。

第6章の中扉にある蓮如の書のおおらかさ。
南と元の文字の大きさと、それ以下の阿弥陀仏のバランスが、悪い。
「とりあえず、やってみる。そこから結果を導く」というような、いかにもおおらかな性格を表した書に見える。

親鸞の師匠であった法然は、一生を女性と接せずに過ごしたという。
親鸞は肉食妻帯を実行し、それを煩悩として悩みつつ一生を過ごした。
その点で蓮如のおおらかさ、清濁併せ飲む人間性というのに、私も大きな魅力を感じる。

「人は一瞬きらめくときがある。そこが人間の魅力というものです。聖と俗が切り離しがたくからみあった一人の人間として、彼と平座でむかいあうことこそ蓮如を理解する唯一の道だと私は思うのです。」という言葉で、五木は本文を終える。

この「聖と俗が切り離しがたくからみあった一人の人間」というところをとらえて、真宗の信者は「蓮如さん」と呼ぶのだろう。
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