読んだ『阿弥陀堂だより』(南木佳士 著、文芸春秋) [本・雑誌]

とうとうというか、やっとというか。
南木佳士の代表作のひとつに辿りつくことができた。

この前読んだ『天地有情』にあった <「阿弥陀堂だより」を書いたころ> という一文に「書くことは、「死なずにいるための唯一の手段だった」という一節があり、パニック障害とうつ病の中で書く小説とはどういうものなのか、そもそもうつ状態で小説なんか書けるのか? というのが根本的な疑問だった。

もうひとつは、庭の焼却炉で焼いたという新聞の書評に書かれていたということがらが、「実際、どうなのよ」という興味もあった。

なによりも、南木さんのエッセイだけをずっと読み続けてきて、敢えて小説を避けてきた自分にとって、南木さんの小説を私自身がどう感じるかに興味があった。

本書には、さまざまなエッセイに出てくるシチュエーションが満載。

描かれる山村の風景や山の遠景、四季折々の描写、「トラ」になる子猫のエピソード、なによりも阿弥陀堂を守るおばあさん、村の老人たち、とりわけお年寄りの女性たちの言葉など、私にとってはいわば自分の村でのできごとのように感じられてならなかった。

小説らしい小説を読んだのは、いったい何年ぶりだろう。
たしかに、細部にまで心が行き届いた表現が、そこかしこにある。

初めて阿弥陀堂のおうめ婆さんを訪ねて、お茶をごちそうになるシーン。

「茶だんすから急須を出し、ポットの湯を注いでお茶をいれてくれた。」という一文が、「おうめ婆さんは割れたガラスを黄色っぽく変色した絆創膏で貼りとめてある茶だんすからアルマイトの急須を出し、錆の出たステンレスのポットの湯を注いで茶をいれてくれた。」となる。

まさに細部を作り上げる技巧。

そこに住むことなしには描けない言葉たち。
「風に芯が出てきたらすぐ冬だぞ」

「広く吹く風の中に、特に冷たい空気の固まりが含まれていて、それを芯と呼ぶ。」とのこと。
南木さんが育った群馬というところは、あるいは信州というところは、秋から冬への変わり目をこんなふうに表現する地方だということに気付かされる。

あるいは、「落葉を終えかけた木々の間を小雪が舞うのを見た。」という表現。
「落葉を終えかけた木々」。
おそらくこういう部分が、「細部にこだわる」ということなのだろう。

「人工の光の混じらない天然の闇そのものが人の意識を吸い取ってしまう濃さを持っているのである。」

「人の意識を吸い取ってしまう濃さ」
そんな濃さをもった闇というものを体験してみたい。

南木さんらしい警句。
「ここでは人が生きているのではなく、山によって生かされていると言った方が正しいのです。なにか目に見えない大いなる力によって自然とともに生かされている人間。山の暮らしは人間の小ささばかりを教えてくれます。」

ただ、この文章は高校時代の主人公が書いていることになっている。
当時の国立高校生というのは、そういうレベルの感覚を持ち得たということなのだろう、か。

おそらくそうなのではなく、主人公も3歳から祖母に育てられたという設定でもあることだし、祖母から教えられ、日々の生活の中から感じてきたこととして十分説得力はあるのだろう。

主人公の妻美智子(主人公でもあるのだがw)がパニック発作に見舞われたときの美智子の母親の言葉。
「みっちゃんはこれまで自分の思いどおりに生きてきたけど、世の中、予測のとおりにはならないことも多いのよ。その事実を知るのが大人になるってことなのよ、たぶん。みっちゃんはこれまでよりずっと患者さんの心の痛みが分かる本物のお医者さんになれるわよ」

ままならいもの。
生まれいずること、老いること、病を得ること、死ぬこと。
私も、この病気を経て、生老病死以外にも「ままならないこと」がたくさんあることを知った。

うつ病に関する指摘。
「心の病気にとってはプライドの高さも悪化要因の一つでしかないのだと孝夫はつくづく思い知らされた。」

幸いにして私が悪化しなかったのは、プライドが低いからなのかもしれぬw

「治ったのではなく、時が彼女の心身を病の状態に慣らしてくれただけなのかもしれない。」

南木さんのエッセイにもあった。
時が経過すれば自分自身も変わっていく。
元どおりの自分は、そこにはいない、と。

初めて読んだ南木さんのエッセイ『生きのびる からだ』のあとがきにあった一節をいつも思い出す。
「変容するから生きのびるのか、生きのびるために変容するのか」。

疑問がひとつ。
「阿弥陀堂だより」を書いている小百合ちゃんは、どうして声を出せない設定にしたのか。
たしかに肉腫という癌に侵され、先進医療をもってしても声を犠牲にせざるをえなかったということと、それだけ恐ろしい病の再発というエピソードがこの物語の山となるわけで。

やはり声が出ないというのは、その再発の暗喩として必要だったのだろうか。

最後の写真のシーンがなんとも感動的。
「三人の女たちは実にいい顔で笑っていた。
九十六歳、四十三歳、二十四歳。老齢、中年、娘盛り。それぞれの年代の女たちはしぶとさすら感じさせるあけっぴろげな笑顔でカメラを見つめている。」

これからの主人公夫婦のしあわせとさらなるおうめ婆さんと小百合ちゃんのつかのまの幸せを感じさせる。

たしかに「センチメンタル」のひとことで語ることができなくもない。
しかし、同じような心の病を得た私としては、よくぞうつ病のなかでこれだけの物語を紡いだと思う(嘘つけよ>南木佳士。そんなことできるわけ、ないだろ?)

さらに言えば、南木さんというひとは底知れないエネルギーを保有するひとという気がする。
自然と人と生活を精細に描いたこの本は、だから愛されるのだろう。
単に、新聞の書評者は人の心を感じるだけの、また感じざるを得ない経験を積んでいないだけに違いない。

いい悪いの問題ではなく、めぐりあわせなのだろうし、仕方のないこと。

次は、受賞作の『ダイヤモンドダスト』か。
いや、それはもう少しあとにしようか。
連作集からいくか。

また「読む」楽しみがふえたのが、ことのほかうれしい。

【ちなみに】
もし南木佳士がパニック障害にもうつ病にも罹患していなかったとしたら
http://amoki-san.blog.so-net.ne.jp/2011-05-30
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