読んだ『天地有情』(南木佳士 著、岩波書店) [本・雑誌]

奥付は2004年。エッセイ集。

<あとがき>にある「もはやだれからも、生き急いでいる、と指摘されない歳になった。だから、気がねなく、あせっている。」という締めの言葉が印象的。

早くそんな境地に達してみたい。

今回のエッセイと同様のタイトル<天地有情>が、いい。
南木さんのエッセイにはよく登場するような気がする大森荘蔵のエッセイとのこと。南木さんにとっては、「命の恩人ともいえる文章」とのこと。

「自分の心の中の感情だと思い込んでいるものは、実はこの世界全体の感情のほんの一つの小さな前景に過ぎない。此のことは、お天気と気分について考えてみればわかるだろう。雲の低く垂れ込めた暗鬱な梅雨の世界は、それ自体として陰鬱なのであり、その一点景としての私もまた陰鬱な気分になる。天高く晴れ渡った秋の世界はそれ自身晴れがましいのであり、その一前景としての私も又晴れがましくなる。簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである。その天地に地続きの我々人間も又、其の微小な前景として、其の有情に参加する。それが我々が「心の中」にしまい込まれていると思いこんでいる感情に他ならない。」

「世界は感情的なのであり、天地有情なのである」

私たちも自然の一部分。大いなる力に支えられ生きている。
大きな自然の前景として生きている。

7歳年下の死にゆく内科医を見舞ったときの南木さんの言葉。
「未来は現在の想いに過ぎないんだから、互いの未来の不確かさは平等ではないか」
内科医の答。「それは単純に確率の問題ですよ」。

内科医の答は正しい。
南木さんの言葉も正しい。

しかし、いかに「すべての人は死のキャリア」だとか、「人生は死に向かって進む船」だとか表現したとしても、また、仮に明日死ぬかもしれないとしても、癌によって「約束された死」を待つひとにとっての「死」は、やはり異質だろう。

どんなに南木さんが死と隣り合わせのうつ病の時代を過ごしたにせよ、やはり癌患者に「互いの未来の不確かさは平等」とは言うべきではなかったのではないか。
ひとりごとは、自分自身に言うべきではないか。

「生きたい」と思えば思うほどに、「未来の不確かさ」は重いものに感じる。

<パニック障害とつきあって十年>
南木さんがその十年の間死ななかった理由、3つ。
「一、医者としてのプライドを捨て去り、患者になりきり、主治医の指示どおりに薬を飲んだこと。
二、病んでいる間にも時は過ぎゆくのだから、元の状態に戻ることが治癒だと考えるなら、それはあり得ないと諦めたこと。
三、未来は己の意志で切り開けるものなのではなく、降って湧く出来事におろおろしながら対処していく、そのみっともない生きざまこそが自分の人生なのだと恥じ入りつつ開き直ったこと。」

私も、薬は欠かさず(とはいえないものの、ほぼ)指示どおりにきちんと飲み続けている。
二にある「病んでいる間にも時は過ぎゆく」ということは、時の変化とともに自己それじたいも変容していくこと。変わっていくこと。

元の状態に戻ろうにも、同一物それじたいが存在しない。
まして、急性期のあの恐ろしい精神状態をくぐり抜け、その記憶は鮮明に残っている以上、その精神状態を招来した生活態度に戻ろうなどという気持ちは、まったくない。

うつ病の「治癒」構造は、骨折や臓器の疾患とはまったく違うもの。
360度回転をして元の地点に戻ることは、そもそもありえず、おそらく螺旋状に推移する思考と生き方だろう。

急性期、それ以前を客観視できる見方ができること。
そして、そこに陥らない生き方を実践すること。
おそらくそれがうつ病の「治癒」なのだろう。

<本を読む元気>
アランの『幸福論』の一節。著者名とタイトルくらいしか覚えちゃいない。読んだことすらない。

その一節。
「パスカルがこう言った。病気とは、元気な人にとっては我慢のならないものだ。それというもの、彼がまさに元気だからだ。」

「なんでもうつ病で片付けばよいのですがね」という世間一般の「常識」は、そのような「元気な人」に支えられているのだろう。

この病気は、ならないと分からないし、想像することそれじたいできない。
しかも、患者それぞれの生育環境、生活環境、家族、生き方、発症のひきがね、個体差(これは抗うつ剤の効果に関係する)等々、人の数だけ症状もあるに違いない。

単純に脳内のノルアドレナリンだかセロトニンを活性化させればよいというものでもあるまい。

「元気な人にとっては我慢のならないもの」。
なるほどな。
うつ病にかかる前の私、それ自身が、うつ病に罹患した自分を眺め、焦っていたのだろう。
その後、さまざまな本に接し、落ち着いて考えられるようになってから、「治癒」というものを考えたにすぎない。

アランの『幸福論』の引用の続き。
「事実というものには、それがどんなに悪いことであろうとも、益となる一点がある。事実はわれわれに、新しいパースペクティブでとらえた新しい将来を示してくれる。」

たしかに、うつ病は私に「ありがたい」という気持ちと、「生かされている」感覚と「大いなる力」の存在を感じさせてくれた。
さらに、新しい視座を提供してくれたことは間違いない。

「病んでいる人というのは、きのうだったら不幸だとおそらく言っていたような取るに足らぬ状態でさえも、まるですばらしい幸福のように期待している。人間というのは、われわれが思っている以上に賢いものである。」

なるほど。
古典というのは、ほんとうに宝箱のようなもの。
一日一日、回復を実感していた去年の夏。
心を病むという事実は、まさに益なる一面を私にもたらした。

<からだにまかせて>
「幸福という言葉は口にした先から呼気とともに逃げ出してしまうやわなものと確信しているゆえ、できるかぎり用いないようにしている。」
でも「自然の一部として在るつもりになれることの有り難さに感謝する際、どうしてもこの言葉が脳裏に浮かぶ。」

大いなる力に生かされた南木さん。
私など自然の恥部ではあっても、一部には違いないだろうという思いはある。
おそらく「有り難い」と思えることそれじたいが、きっと「幸福」なのだろう。

<「阿弥陀堂だより」を書いたころ>
これを書いた94年から95年は、南木さんにとって最悪の体調のときだったという。パニック障害からうつ病を発症。
書くことは、「死なずにいるための唯一の手段だった」

「いまは肩の力を抜いてゆっくり景色を見ながら下ってゆく心地よさを何よりも大切にしたい。」

新聞の文芸時評では「その内容の甘さをこっぴどく批判された」のだという。
「そんなにひどいことを書くなら、なんでこれほど大きく時評に取り上げるんだよ、と涙ぐみつつ、送られて来た新聞を庭の隅の焼却炉で燃やした。」

不思議なのは、そんな批判的な時評をご丁寧にも送ってくるものだということ。
内容が甘かろうが辛かろうが、南木佳士が書いたもの。
自分のために書いたとはいえ、商品として出すだけの細工と技巧を凝らしてリリースしたもの。

おそらく評者は病者の視点に立つことのできない人だったに違いない。
そして、それがごくごく一般的なふつうのできごとに違いない。

<神社の怖さ>
「生きるということは必ず誰かを傷つけたり踏み台にすることだから」

<定年を待ちながら>
『エピクロス』の一節。
「身体の健康と心境の平成こそが祝福ある生の目的だからである。なぜなら、この目的を達するために、つまり苦しんだり恐怖をいだいたりすることのないために、われわれは全力を尽すのだからである。」

その後、有名な「快楽」に関する記述が出てくるとのこと。
曰く、「われわれは、快を、第一の生まれながらの善と認めるのであり、快を出発点として、われわれは、すべての選択と忌避を始め、また、この感情(快)を規準としてすべての善を判断することによって、快へと立ち帰るからである。」

<樹林の上の空>
南木さんは、「からだの代謝がよくなったのか、風邪をひかなくなったし、痔も治った。」

たしかに私も昨年以来、風邪などひいていない。
たしかに不思議でならない。

<急な青空>
「人は自分の見たいものしか見ない。」
歴史の概説書に書かれていたことば。
南木さんは、これには批判的。

むしろ「人間は見ざるを得なかったものしか見られない」と考えている。
たしかに、見たくもないものを見させられるのが人生の一断面なのかもしれない。
もちろん、見なくてもよいものを見ないで過ごせるひとたちもたくさんいるに違いない。
それはそれで幸せなこと。

ただ、見ざるを得ない人生が不幸かといえば、またそれは別の問題だろう。
私の結論は、まだまだ先にある。
この病気、まだまだ先があるやもしれず。
たまたま現在、ふつうにいられるだけかもしれず。

<泣きながら>
とうとう南木さんは、映画「阿弥陀堂だより」を見た。
そのときの一文。
「この小説を書いたころはうつ病のどん底でうずくまっており、一日を生きのびるのに精一杯だった。つらかったよなあ、と胸のうちで何度もつぶやき、泣きながらようやく観終えた。」

<ランプ>
パニック障害発作を起こしていたころ、奥さんが散歩に常に同行してくれていたとのこと。
「まあ、仲がよろしくて」という声掛けに対して「決してそうではない。仕方なく、なのだ。」とあり、さらに「でも、よく考えてみれば、長く夫婦をやっていることそのものが、「仕方なく」なのかもしれない。」

笑。

「病者の思考は明日への楽観を欠くぶん、きょう一日の生活の積み重ねでしかない人生の本質に迫りやすくなる気がする。」

たしかに、うつ病の急性期のころは、明日などない、現在でしかなかったし、まさに「きょう一日の生活の積み重ね」だった。
人生の本質は、「きょう一日の生活の積み重ね」。
単純だが、重い。

「天地有情」。
今度は大森荘蔵を読んでみたくなった。

【ちなみに】
もし南木佳士がパニック障害にもうつ病にも罹患していなかったとしたら
http://amoki-san.blog.so-net.ne.jp/2011-05-30
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